未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

翻訳できない世界のことば - Lost In Translation

翻訳できない世界のことば

Lost in Translation: An Illustrated Compendium of Untranslatable Words

 

このブログは未翻訳の洋書を日本語版発売前にかいつまんで紹介するのがメインのブログだけど、以前紹介したイスラエルの作家エトガル・ケレットの本とか、とても好きなものは日本語版が出ていても取り上げたい。

 

本書「翻訳できない世界のことば」(原題'Lost In Translation')は、他の言語では一言で言い表せないような世界中のことばをイラスト付きで解説する本。著者のエラ・フランシス・サンダースは20代の女性イラストレーターである。本書のレビューをアマゾンに投げたのでここにも転載しておく。

 

ことばとはコミュニティの記憶

ツイッターなどネットでたまに見る表現で「◯◯の現象に名前をつけたい」というのがあるけれど、本書を眺めていてそれが頭に浮かんだ。

 

「だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみる」現象に名前をつけたいと思ったイヌイットたちが、IKUTSUARPOK/イクトゥアルポクと言い出したのかもしれない。

 

「日が暮れたあと遅くまで夜更かしして友達と楽しく過ごすこと」ばかりしていた連中が、アラビア語でSAMAR/サマルと名づけたのではないか。

 

本書が単なる珍しい言葉の羅列ではなく読んでいてとても楽しい本になっているのは、そんな風に、ことばを使っている人やコミュニティに想像を巡らせられるからだと思う。

 

「3杯目のおかわり」にわざわざTRETAR/トレートールと名前をつけるなんてスウェーデン人はおしゃべりが好きなのかなとか、「ウイスキーを一口飲む前に上唇に感じる妙なムズムズする感じ」を識別してSGRIOB/スグリーブとゲール語で呼ぶスコットランド人はどんだけ酒好きなんだとか、ことばに蓄積されたコミュニティの記憶を楽しめる。

 

でも一方で、これらのことばがどれだけ生き残るんだろうかとも思わされる。

 

グローバル化が進展して世界がつながりを強めると、基本的に言語の種類は減っていく。大人数が最大公約数での理解を図るためには共通語が必要で、少数者の言語や「翻訳できないことば」はむしろジャマになるからだ。

 

ゲール語など本書に収録された言語の一部は数万人しか使用者が残存していない。コーンウォール語やアイヌ語やネイティヴアメリカンの言語など、本書に収録されるかもしれなかったけれど既にほぼ失われた豊かな言語も数多いだろう。

 

こんなことばがあるんだと笑いながら読めるけれど、それだけでなく、「心の中になんとなくずっと持ち続けている、存在しないものへの渇望や、または愛し失った人やものへの郷愁」つまりSAUDADE/サウダージも喚起する一冊。写真集を見て被写体の人たちの暮らしに思いを馳せるように、パラパラと眺めてことばのバックストーリーを想像すると楽しいと思う。

 

さて、上の文章もアマゾンレビューとしてはたぶん長いけれど、ホントはもっと書きたい話があって削ったので、それを以下に補足する(レビュー本体より長い)。

 

言語は多様であるべきか?

本書を読むと、失われた/失われる言語について考えさせられて、なんとなく「言語の多様性は守られるべき」とか思う。でも、「多様な言語が存在する社会はよい社会」と言える根拠ってなんだろう?

 

たとえば、遺伝子の多様性を確保することは生物の生存確率を上げるために重要な戦略である。ある生物種が生き残るためには環境の変化に適応しなければならないけれど、どんな環境変化が起こるかは予測できない。だからなるべく多様な遺伝子をプールしておく。その中から生存繁殖にとって有利な遺伝的変異が選抜され保存される。

 

遺伝子と違って、言語というのは本来はただの伝達道具であって生存とは関係ない。道具に過ぎないならば、多様である必要って必ずしもないようにも思える。

 

言語の複雑さと社会の複雑さの間に相関関係は無いとする調査がある。19世紀に英国人がニューギニアの島を訪れたときは700以上の言語が現地に残っていて、技術的に未熟なある部族が使う言語では、英語の代名詞'we'に対して「私と、私がいま話しているあなた」という意味と「私と、私がいま話しているあなた以外の他の人」という二つの意味を区別してそれぞれ別々の言葉を使っていたらしい。*1

 

さて、もし上に挙げた2つの意味の言葉が'we'に統合されたとする。それって多様性の喪失なのだろうか。

 

人間の思考には、バラバラな事象に法則や共通点を発見して一般化する能力がある。仮に「靴」という言葉を永遠に知らずに「スニーカー」や「ハイヒール」や「ブーツ」などの言葉だけを知っている部族がいたとしたら、彼らは毎度毎度それぞれの言葉を使い分けなければならず効率が悪い。それらを上位概念としてまとめる「靴」という言葉があった方が便利だ。

 

そう考えると、ニューギニアの部族が使い分けていた言葉を'we'に統合するのは、多様性の喪失というより洗練であって、言語の機能性にとってプラスではないか。

 

でも、ここにたぶん落とし穴がある。この考え方を極端に進めると、ジョージ・オーウェルの1984に登場する「ニュー・スピーク」が理想の言語になる。重複する言葉を集約し、曖昧な意味を排除し、使用するボキャブラリーを絞りこんだ、管理社会で思想を統制するための言語である。

 

本書で紹介されている言葉は、もしニュー・スピークがあったら真っ先に削除されそうな言葉ばかりだ。「バナナを食べるときの所要時間」(マレー語でピサンザプラ)なんて曖昧なこと甚だしい。

 

こういう言葉を残す意味は結局なんだろう。それは、自分と違う言葉を使う人がいると知ることが、自分と違う考え方をする人がいると理解することにつながるからではないだろうか。

 

ちょっとソースがネットで見当たらなかったのだけど、複数の言語を話す環境で育った子どもは単一言語の環境で育った場合に比べてより他者に寛容な考え方になりやすいという調査を聞いたことがある。

 

言語が違えば考え方も違う。言語の多様性を守る理由、それは、異質な他者を尊重して共存する社会の基盤として必要だからではないか。

 

・・というような事を、クドクド説明しなくてもニヤニヤ笑いながらリラックスして実感できる本なのでこの本はすばらしい。このブログで考えていきたい事とこの本のテーマってかなり近い気がして、勝手にシンパシーを感じた。*2

翻訳できない世界のことば

翻訳できない世界のことば

 

 

Lost in Translation: An Illustrated Compendium of Untranslatable Words

Lost in Translation: An Illustrated Compendium of Untranslatable Words

 

 

*1:ジャレド・ダイアモンド「人間はどこまでチンパンジーか?」より

*2:ちなみに本書が米国でベストセラーになった著者の新作は世界中のことわざをイラスト付きで紹介する本らしい。思わず「柳の下にいつもどじょうはいない」ということわざを教えたくなった・・

*追記:日本語版も出た。表紙が前作と見分けつきにくい・・ 

誰も知らない世界のことわざ

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