未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

彼や彼女を好きになれるかはどうでもいい

Dear Friend, from My Life I Write to You in Your Life

 

小ネタ記事。

個人的に「キャラ萌え」という文化に昔からあまりなじめないのだけど、前の記事↓で紹介したイーユン・リーのエッセイ本に似たような話を見つけた。

 

エッセイの中で、イーユン・リーは「読書をするときに登場人物に自分を重ねない」と語る。

 

中国出身のイーユン・リーが兵役で複数の女性と共同生活をしていたとき、グループ内で「風とともに去りぬ」が回し読みされていた。このとき彼女は、シャイな女性からうるさい女性まで、性格の異なる人間がみんなスカーレット・オハラの中に自分を見つけていたのを不思議に思ったという。

 

私はスカーレット・オハラに自分を見出さなかった。アンナ・カレーニナにも、テス・ダーバイフィルドにも、ジェーン・エアにも。ジャン・クリストフにもニック・アダムスにもポール・モレルにも海と戦う老人にも、私は自分を探してはいなかった。
I did not see myself in Scarlett O’Hara; or Anna Karenina or Tess Durbeyfield or Jane Eyre; nor did I look for myself in Jean-Christophe or Nick Adams or Paul Morel or the old man fighting the sea.

 

誰かの物語に自分を読みこむことは、私の読書の仕方、読書をする理由とは真逆にある。読書とは、誰かとともにいることだ。身の回りの人の場合と違って、自分の存在は気付かれないまま。

To read oneself into another person’s tale is the opposite of how and why I read. To read is to be with people who, unlike those around one, do not notice one’s existence.

 

小説などフィクションの登場人物を自分に引きつけて「彼/彼女を好きになれるかどうか」という見方をするのはよくある事だと思う。キャラクターはフィクションの大事な要素である。

 

でも、そのキャラを好きになれるかどうかだけで作品の良し悪しまで判断してしまうとしたらもったいないのではないだろうか。「他人に好かれたい」という欲求を消して生きるのが難しい実世界の人間と違って、フィクションの登場人物は読者に好かれるために生きなくてよいのだから。

 

2017年の1月に日本語版が発売された「バッド・フェミニスト」というエッセイ集の中で、ロクサーヌ・ゲイは次のように語る。

 

ありとあらゆるリアリティ番組ではその必然として、誰かが「私は友達を作るためにここにいるわけじゃない」と堂々宣言する。(中略)彼女たちは好感度の重荷から自らを解き放つ。

(「友達を作るためにここにいるわけじゃない」より)

 

これに続いて、ロクサーヌ・ゲイは別の作家のエピソードを紹介する。私はこの主人公と友達になりたいとは思わない、自作についてそうインタビュアーに言われたその作家は答えを返す。

 

「何その質問?ハンバート・ハンバートと友達になりたいってわけ? ミッキー・サバスと? サリーム・シナイと? ハムレットと? クラップと? エディプスと? オスカー・ワオと? アンティゴーネと? ラスコーリニコフと? (中略)もしあなたが友達をみつけようとして読んでいるとしたら、困ったことです。私たちは人生を、その可能性の中にみつけようとして読むのです。適切な質問は、『このキャラクターは私と友達になれそう?』ではなく、『このキャラクターは生きてる?』でしょう」

(同上)

 

好かれるかより、生きてるか。

 

いち読者として、全く好きになれないクズみたいな登場人物ばかり出る作品にも傑作は多いと思うし(イーユン・リーの小説もひどい人がいっぱい出てくる)、小説や映画とかを作る方には、登場人物が受け手に好かれるかどうかなんて気にせずに作品を生み出してほしいなと思う。

Dear Friend, from My Life I Write to You in Your Life

Dear Friend, from My Life I Write to You in Your Life

 

 

バッド・フェミニスト

バッド・フェミニスト