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未翻訳ブックレビュー

Lost In Bookish Rambles. 日本語版発売を待たずに本を紹介するページです

【Voiceを聞いてきた】イーユン・リー x 川上未映子 in 東京国際文芸フェスティバル2016

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大好きな作家のイーユン・リーが東京国際文芸フェスティバルというイベントで来日!

あ、でもトークライブは平日の夜か。仕事で行けなそう。。

お、でも会場が職場のすぐ近くだ!

 

という個人的な経緯を経て、2016年3月3日の川上未映子さんとのトークライブに(仕事を一時離席して)行ってきたのでそのレポートと感想です。

 

以前にこのブログでも紹介した↑中国出身アメリカ在住の小説家イーユン・リーは今回が初来日です。「小説のVoiceはどこまで届くか?」と題されたこのトークライブでは、「母語と違う言語で創作するとは?」などの話題を経て、最後には「良い文章ってなんだろう」とか考えさせられました。以下、個人的にグッときた発言を軸に紹介します。 

 

子どもが言葉を覚えるように

「子どもが言葉を覚えるとき、何も恐れずどんどん喋るでしょ。私も同じで、はじめは恐いものなしだった。フラストレーションを感じるようになったのは後になってから。」  

 

72年生まれのイーユン・リーさんは北京で生まれ育った後、免疫学専攻の留学生として渡米します。寒い片田舎の(ってリーさん自分で言ってました)アイオワ大学で、もともと英語上達を目的に小説を書いたところ「あなたはちゃんと書くべき」と担当教授に薦められ、そこから彼女の創作活動は始まったそうです。

 

母語の中国語ではない英語で小説を書き始めてフラストレーションを感じることはなかったのか。このプログラムの司会を務めていた翻訳家の小澤英実さん、そしてイーユン・リー作品の愛読者である対談相手の川上未映子さん*1にそう聞かれて、彼女は上のように答えていました。なお、発言は私のうろ覚えですのでご了承ください(以下、この記事内すべて同様)。

 

ちなみに、この日の川上未映子さんは「今日は私のことはいいので・・」と冒頭で言っちゃうくらい、読者として聞き手に回っていました。イーユン・リー作品について「クラシカルで慎重な文章」「アイデアに頼るのではなく、想像力で勝負して人間を描いているのがホントにすごい」と褒めちぎっていて、穏やかによく笑うイーユン・リーさんとのトークは、とても和やかな雰囲気でよかったです。

 

「今は子どもに'I love you'と言っているけれど、中国語でその言葉を言ったことはない。言語の発見は人格の発見でもある」イーユン・リーさんはそんな発言もしていました。彼女にとって、言語の習得と物語の創作はどちらも「新しいキャラクターの発見」であり、同時進行していたのかなとか思いました(と、言うのは簡単ですが、よくそんな事できるなあ)。

 

'loneliness'と'solitude'の違い

「さびしさ(lonely/loneliness)と孤独(solitary/solitude)は違う。さびしさはただの感情だけど、孤独は自分で選んだ状況だ。中国では地域の監視の目があってプライバシーがないような時代があったから、私はアメリカに来てから自分の孤独を楽しんだ。でも、さびしさは楽しめない。私の小説の登場人物たちは、孤独をプロテストとして使っている(They use solitude as their protest.)」 

 

母国と母語を離れて小説を書いている彼女ですが、作品の登場人物は中国人が多く、舞台も中国が多いです。デビュー時から多数の賞を受賞し若手の注目作家とされている彼女の作品は、アメリカで「これが現代のリアルな中国だ」みたいに評されているそうです。

 

でも彼女はこの日「自分が書いているのは'my China'であって'real China'かどうかはわからない」と説明していました。そして、「描きたいのは'real China'ではなくて'real human nature'だ」とも言っていました。そして、リアルな人間を描くことを目指す彼女の作品で必ず出てくるテーマが「孤独」です。最新長編のタイトルは「独りでいるより優しくて」(Kinder than solitude)といいます。プロテストとしての孤独、というのは本作に登場する人物を知るとよくわかると思います。

独りでいるより優しくて

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Voiceが聞こえるのが良い文章なのかも

さて、この日はイーユン・リーさんと川上未映子さんによる自作の朗読もありました。観客には対訳もついた朗読原稿が配布されて、川上未映子さんは「三月の毛糸」という作品、イーユン・リーさんは「優しさ」(Kindness)*2という短編の一節を朗読。

 

"When I was five, a peddler came to our neighborhood one Sunday with a bamboo basket full of spring chicks..."

五歳のときのある日曜日、春に孵ったひよこを竹籠にわんさと詰めこんで、行商人が地元へやってきた。(以下続く)

 

・・この朗読、シビれました。

「読んでいるのを聞いている」のではなく「声が伝わってくる」体験でした。

 

川上未映子さんが「音楽を聴いているみたいだった」と感動していましたが、ホントそんな感じでした。イーユン・リーさんはしっくりくるまで自作を何度も声に出して読むそうです。

 

そして、朗読からの流れで、「小説のVoiceとは何か」というトピックに移り、川上さんが「Voiceとはテキストのバイオリズム全体ではないか」といったお話をされていました。

 

勝手に解釈すると、このバイオリズムの話は、生きている人の声として文章が聞こえてくるかどうかが重要という意味なのかなと思いました。

 

たとえば町を歩いていて「ガスを安全に使いましょう」とか「x月x日は投票に行きましょう」とかの文章を見たとき、その文章を情報として認識はしても、誰かの声として臨場感を持ってその文章が響いてくることってあまり無いと思います。

 

一方で、たとえば小説を読んでいて自分の知り合いそっくりの登場人物が出てくると、そこから先はもう登場人物の発言がその人の声に変換されて聞こえてくることってあるのではないでしょうか。

 

朗読を聞いて改めて思いましたが、私の場合、イーユン・リーさんの文章、特に地の文に挿入されるモノローグを読んでいると、似ている知り合いがいるかに関係なく、実際にその登場人物が喋っている声が聞こえてくるような臨場感を覚えます。

 

反対に、つまらない小説を読んでいると、どんなにアツい発言や美辞麗句であっても「ガスを安全に使いましょう」と同じように情報としてしか認識できないです。

 

心に残る文章を「刺さる」とか「響く」とか呼びますが、それって、生きている人間の声=Voiceとして聞こえてくるということなのかも。そして、それがあるのが良い文章なのではないか。そんな風に考えさせられたトークライブでした。じゃあそのVoiceを成立させるのが文章のリズムなのか何なのかは結局未解決ですが。。

 

以上、レポートでした。上の方に貼った過去記事でも書いたのですが、イーユン・リーさんの新作は出たら必ずチェックするようにしたいです。なお、私は行けませんでしたが、角田光代さんや小野正嗣さんとのセッションにも彼女は出演してました。 

 

「あの小説の中で集まろう」って感じのイベント、東京国際文芸フェスティバルは本日3/6でクロージング。でも関連企画は3月いっぱいぐらいまでやっているみたいです。

 

*1:川上さんがいちばん好きなイーユン・リー作品はデビュー短編の「不滅」だと言っていました。「共同体が主人公で、共同体が語り手でもある」「短編とは思えない長編のようなテーマを持った」作品です(by川上さん)。同作の冒頭の一文は以下の通り↓

「わたしたち誰もがそうであるように、彼の物語もまた、誕生のはるか以前に始まった。」 

千年の祈り (新潮クレスト・ブックス)

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*2:余談ですが、この日の最後にQ&Aの時間があり、「ふるかわ」という男性の方がイーユン・リー作品における「優しさ」について質問をしていました。あとでTwitterで知ったのですが、タマフル(TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』)の構成作家として知られている古川耕さんだったのでびっくりしました。