未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

ちょっと今から人間やめてくる -「すごい物理学講義」とホモ・デウスの話

Reality Is Not What It Seems: The Journey to Quantum Gravity

Carlo Rovelli - Reality Is Not What It Seems: The Journey to Quantum Gravity

すごい物理学講義

カルロ・ロヴェッリ - すごい物理学講義

 

人間が人間であることはなんてすばらしくて、人間が人間でしかないことはなんてショボいのだろう。

 

以前「未来が見える未訳本カタログ2017」という記事で紹介したイタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリの著書"Reality Is Not What It Seems"、その日本語版「すごい物理学講義」を読んだ。この記事はその感想。

 

まず先に、予備校の講義録の本みたいに無味無臭なこの日本語タイトルはひどい。マーケティング上の判断で名付けたのだろうか。イタリア語の原題は「現実は目に映る姿とは異なる」という意味で、英語版はそれを素直に訳したタイトルになっている。改訂とか文庫化とか、何かのタイミングで日本語版もタイトルを変更してほしい。ちなみに本文の翻訳はとても読みやすかった(内容がわかりやすい、という意味では決してない)。

 

「次のスティーブン・ホーキング」とも評されるロヴェッリの本書は、頭がビリビリしびれてくるような面白い本である。この日本語タイトルで敬遠する人にもぜひオススメしたい。本書は、イタリアの「文学賞」も複数受賞している。スゴ本ブログさんでも紹介されているのでぜひそちらも読んでいただきたい。

『すごい物理学講義』はガチで凄かった: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる

※「たとえ話で分かったフリをさせないようにしているのが良い」との評に同感

 

では記事本編をどうぞ。 

 

目次

 

世界は何でできているかの歴史

ロヴェッリは、一般相対性理論と量子力学の統合を目指す「ループ量子重力理論」という理論の提唱者である。同じ目的を目指す「超ひも理論」の対抗とされる理論だ。

 

サイモン・シンのノンフィクションのようなストーリーテリングで、「世界は何でできているか」をめぐる来歴を本書は語る。それはニュートンが思い描いた「時間」「空間」「粒子」という要素を起点とするひとつのロジックツリーとして表現される。

 

ファラデーとマックスウェル、アインシュタイン、量子論を経て展開するそのツリーはついに、たったひとつの「共変的量子場」という要素から世界ができている、という結論に至る。量子のループ(ここでのループは「輪っか」という意味)の泡のような結びつきとその相互作用、それが宇宙を形成している。

 

・・と書いても、なんのことか理解できないだろう。残念ながら本書を読んでも管理人を含めてほとんどの人はすっきり「分かった」とは言えないはずだ。でも少なくとも「たったひとつの要素で世界のすべてができていること」の何がすごいかは説明できる。

 

ロヴェッリの理論の世界観は、世界が連続した空間や時間のなかにあるものではなく、離散した(粒状の)要素で構成されているとみなす。連続するアナログな存在は無限に分けられるけれど、粒状の要素はそれ以上分割できないデジタルな統一単位だ。

 

つまり、その単位を使えば、極小の量子から極大の宇宙までがその倍数で記述できる(はず)。量子力学は、極大の宇宙を曲げる一般相対性理論の影響を無視する。一般相対性理論は、極小の量子力学の影響を無視する。だから、両者に適用できる量子重力理論は「統一理論」になり得る。

 

そして、たったひとつの要素が構成する世界の内訳は、イメージしやすい空間のことだけではない。ニュートンが別々の要素に分けていた時間も空間も、さらにはエネルギーも質量も同じ要素で記述できてしまう(はず)。

 

そこから導かれる帰結は何か。時間も空間も、我々が認知できるような意味ではこの宇宙に存在していない。それは人間が世界を理解するために生み出した概念に過ぎない。これが本書の一番驚くべき結論だろう。

 

その結論に従えば、もはや時間や空間は色と同じように扱われる。物理世界に赤や青という色が存在しているわけではない。一定の振動数の光の波を赤い色や青い色と人間が受容するだけ。時間や空間も、人間の認知能力が「そう感じさせる」だけの存在なのだ。

 

時間は存在しない

地球は丸い。でも人間は平らのように感じてしまう。地球が太陽の周りを回っている。でも人間は太陽が動いているように見えてしまう。ロヴェッリは、同じような誤りがたとえば「現在」という概念にも及ぶと述べる。人間は全宇宙に「今この瞬間」が等しくあると感じてしまう。でもアインシュタインが、時間と空間は切り離せなくてそれぞれの場所に「今」があるだけだと予見して、証明した。ロヴェッリとループ量子重力理論は、空間と時間の概念をさらに刷新する。

 

両者(引用者注:空間と時間)はもはや、世界を縁取る普遍的な構造ではない。空間と時間は、大きなスケールにおいてはじめて現れる、近似的な存在である。

- 中略 -

ニュートン的な空間と時間が、認識の「ア・プリオリ(先天的)な」形式であるというカントの判断は、残念ながら間違っている。カントはニュートン的な空間と時間を、世界を理解するのに不可欠の文法として見なしていた。実際にはこの文法もまた、私たちの認識が深まるにつれて、徐々に変化してきたのである。

 

一番小さな原子核よりも10億x10億倍小さい量子の世界まで煮詰めると、空間も時間も、人間が世界を理解するために創って名付けた仮象であり仮称に過ぎない。だから"Reality Is Not What It Seems"(現実は目に映る姿とは異なる)なのだ。やっぱり原題通りの書名に変更してほしい。それは「なぜ科学を学ぶのか」へのロヴェッリの回答にもなっている。科学を通して人間は「自分の目に映る世界だけが世界ではない」ことを知るのである。

 

なお、念のため付言しておくと「時間は存在しない」と言っても、たとえば「時間=距離/速度」という式が使えなくなるといった意味ではない。それはロヴェッリの言う「大きなスケール」の「近似的な存在」、つまり我々の日常生活に適用するだけなら正しい。

 

この知性だけなのか

さてさて、ここからは物理の話を離れて、管理人が本書を読んで思ったことを書く。妄想だし暴論なので、物理にだけ関心がある方は読まなくてもかまわない。

 

ロヴェッリの本を読むと、人間の認知能力が理解できる「現実」と、物理的な世界の「現実」とが、とてもかけ離れているとわかる。物理学の歴史が、人間の認知能力や運動能力の制約から起こる誤解を補正する歴史のように見えてくる。

 

そこで疑問。こんなにも「現実」と整合していない人間の認知能力が、この宇宙に存在する、たったひとつの知性のあり方なんてことがあるだろうか。

 

「時間は存在しない」と言われても、我々は直感的にそれを理解できない。色を感じるのと同じように、時間は「ある」と実感してしまう。

 

量子力学や量子重力理論についても、それを当たり前のものとして実感するような知性が、宇宙のどこかにいたりしないだろうか。

 

ロヴェッリは「1枚のTシャツに方程式の全体を書き込めないようであれば、その理論は信用するに値しない」という発言を引用して、本書にループ量子重力理論の方程式が書かれたTシャツを載せている。人間でその方程式を理解できるのはほんの一握りだろう。

 

でも、そんなに「簡単」な式で表現できるならば、人間が時間の流れを実感するのと同じように、それを当然の摂理として理解してしまう知性が存在するのではないか。その存在はループ量子重力理論*1を理解する、だってそれは宇宙の「現実」に合っているから。逆に、その存在は人間が言う「時間」というものが理解できない、だって宇宙の物理的な「現実」に存在していないから。

 

物理学(または科学全体)の歴史は、人間が小さな存在であることを教える歴史でもある。この世界の全体だと思っていた地球が太陽系の惑星のひとつで、その太陽と同じような恒星を2000億個持つ天の川銀河がその外にあって、さらに1250億個の銀河が宇宙を構成する。*2そして多元宇宙論はこの宇宙もひとつではないと予見する。

 

こんなに宇宙が広ければ、人間の認知能力は知性のいちバリエーションでしかなく、他の知性のあり方があるのではないか。この意識も、この「私」も、地球という特殊な環境だけのために40億年かけてカスタマイズされた、ガラケーのいち機能みたいなものでしかないのではないか。

 

もちろん、星の数が多ければ別の知性が存在するとは言えない。宝くじの発行枚数と当たりくじの枚数が比例するとは限らない。「レアアース仮説」という説なんかは、知的生命体が地球の外に存在する可能性は稀であると主張する。宇宙のどこかにいる別の知性なんていうとオカルトに聞こえる。

 

では、人間が自分たちの手で自身を別の知性にアップグレードさせることはできないだろうか。

 

ホモ・デウス

これはSFのネタではなくて、「サピエンス全史」のユヴァル・ノア・ハラリが、以前にこのブログでも紹介したその続編「ホモ・デウス」で予見している未来である。

 

Homo Deus: A Brief History of Tomorrow

 

ハラリは「知性は必須だが、意識はオプションに過ぎない」と主張する。AIはいずれ人間の知性を上回るだろう。でもそのとき、でたらめな進化の末に人間の認知機構がたまたま実装した「意識」を、人間よりはるかに高度な「知性」は必要としないのではないか。

 

そしてハラリは、遺伝子操作や身体のサイボーグ化やAIとの融合によって、人間がやがて神(デウス)のような存在になると予見する。人間の認知能力は脳をはじめとする生物学的な特徴に制約付けられている。だから、その制約から自由になることは認知の仕組み自体を変える可能性がある。それは人間以外の知的生命体を人間が生み出す未来である。ハラリ曰く、その存在は人間=ホモ・サピエンスを「ウォール街に迷い込んだネアンデルタール人」みたいなものに追いやってしまう。

 

これは突拍子もない発想に聞こえる。人間をやめるなんて、ダメ、ゼッタイ。でも、ハラリやロヴェッリの本を読んだ後だと、いまの人間をやめることなんて、ガラケーからスマホに乗り換えるぐらいフツウのことではないかとも思えてきてしまう。

 

理論物理学は、物理的な現実から人間の認知がいかにかけ離れているかを何度も証明してきた。ロヴェッリは時間や空間でさえ人間の認知能力の制約の産物だと証明しようとしている。だったら、なぜその認知能力を改変してはいけないのだろう。「現実は目に映る姿と異なる」なら、現実が目に映るように人間を変えてはいけないのか。人間の認知能力や運動能力は「定数」ではなく「変数」ではないか。人間であり続けるよりも、人間をやめる方が、物理的な現実、もっと言うなら宇宙の摂理に従っているのではないだろうか。そもそも人間の知性が、存在していない時間を実感してしまうぐらい「バグ」だらけなのだから。

 

いや、そのバグが人間のすばらしさなんだよ・・という反論ができそうな気もするけれど、長くなってきたのでこの記事は終わる。なお、ロヴェッリが宇宙人だの遺伝子操作だのAIだのと語っているわけでは全くないのでご安心いただきたい。

 

すごい物理学講義

すごい物理学講義

 
Reality Is Not What It Seems: The Journey to Quantum Gravity

Reality Is Not What It Seems: The Journey to Quantum Gravity

 

 

*1:同理論はまだ証明されていないけど、ここでは正しい理論であると仮定しておく

*2:恒星と銀河の数は「137億年の物語」で使われていた数字を使用

137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史

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