未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

メタバースより「俺バース」 - ジェニー・オデル、注意経済、折坂悠太

何もしない

How to Do Nothing: Resisting the Attention Economy (English Edition)

 

ジェニー・オデルの「何もしない」(How to to nothing)を読んだ。余暇を含めた全ての時間を換金可能な経済資源として差し出す事に慣れてしまった社会を批判する本だ。カリフォルニア在住のアーティストであるオデルは、荘子や古代ギリシャのエピクロス派の哲学から自らのバードウオッチングの体験までを参照して、現代において「何もしない」でいることの難しさと重要性を説く。

 

サブタイトルの「アテンション・エコノミーへの抵抗」(Resigting the attention economy)が本書のテーマを端的に表現している。アテンション・エコノミー、注意経済とは、SNSやアプリのユーザー数や滞在時間など、人間が何かに向ける注意がそのまま経済的な価値として測定されて換金される経済を指す。

 

注意経済の歴史と本質はティム・ウーの"The Attention Merchants"という本が詳述している。2016年に紹介したこの本、名著だと思うのだけど日本語訳が結局出ていないままだ。ポイントをかいつまんで言うと、新聞やテレビからTik Tokに至るまで、注意経済のビジネスとは「何らかの刺激と引き換えに、人々の注目(アテンション)を集めて、それをスポンサーに売る」商売である。

 

注目を集めるための刺激は、感動でもいいし、恐怖や不安でもいい。トランプ大統領が選ばれた頃、「マーク・ザッカーバーグは私のデータを売ってビリオネアになり、私に残ったのはクソ大統領だけ」と書かれたTシャツを作っている人がいた。

 

さて、Facebookが「SNS企業からメタバース企業」への変革を目指し、社名を変更する予定と報じられている。

 

メタバースはバズワードになっていて、技術的な可能性や課題が語られているけれど、オデルの本を読んだ後、メタバースを「どんな世界にしたいか」の方が、技術的な観点よりもずっと重要なのではないかと思った。

 

というか、より具体的に言うと、注目を集めてそれを広告主に売るアテンション・エコノミーの世界が、VRやARの世界に拡張されるだけだったら、ディストピアだしジョークだしクソだ。

 

新Facebookがどんなビジョンを出すのか分からないけれど、「メタバースの中であなたのアバターが取った行動を分析して、最適なオススメ商品を表示して楽しい買い物ができるようになります」みたいな世界観をもし出すなら、ビジネスモデルは何も変わってなくて、ツールがモバイルからVRやARに変わるだけだと思う。それだったら、ただ単にVRのバーチャル会議ルーム機能を法人アカウントに課金して提供したり(要するにZoomのVR版)、VRやARの技術基盤を開発してそれをB2Bで様々な業種に売る方が(遠隔医療とか、工場の遠隔モニタリングとか)、フツウだけど邪悪(evil)ではないビジネス、だと思う。

 

・・で、思いっきり話は飛ぶのだけど、折坂悠太の新アルバム『心理』がすばらしくて、何度も何度も聴いている。

 

コロナ禍を背景とした上のインタビューで、折坂悠太は「命が大事なのは感情に訴えかけて伝えることじゃなくて、むしろ真顔で言わなきゃいけない。音楽でうやむやにせず、言うべきことはあるというか……音楽の出番はもっと他にあるという感じがする」と発言している。この品位というか節度(decency)がとても好きだ。

 

勝手な解釈でむりやり話をつなげるのだけど、政治家だろうがビジネスパーソンだろうがアーティストだろうが、何を発言しても注意経済の通貨として流通してしまう。そんな中で唯一の守るべき領域が個人の『心理』の世界なのではないだろうか。ジェニー・オデルは、「何もしない」ことで、「世界との失われたコンテクストを回復」して、「自立共生=コンヴィヴィアリティ/conviviality」を目指そう、と語る。難解な言い方に聞こえるけれど、これも要するに、自分のアテンションを誰かに安売りするのをやめて、自分の心の世界を守ろう、と言っているのではないかと思う。メタバースもいいけれど、その前に「俺バース」や「私バース」(Me-verse)を構築すべきなのだ。

 

何するつもりでいたんだろう

今 動かずただ ここにいるよ

叫ぶことば 僕らに似合わず

互いに見合って ここにいるよ

(炎)

*「何もしない」でいる事のアンセムみたいな歌で大好きだ