未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

ヒトになった猿は神へと進化する - Sapiens: A Brief History of Humankind by Yuval Noah Harari

2016/01/24 初出

2016/07/05 日本語版発売につき更新

*ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」として2016/09/08発売 

Sapiens: A Brief History of Humankind

Sapiens: A Brief History of Humankind

作者: Yuval Noah Harari

 

ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を超える本、と煽られている2014-15年の世界的ベストセラー。

地球の「ザコキャラ」だったホモ・サピエンスが現在の支配的地位を築けた原因は何だったのか。イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリは本書で仮説を提示する。

 

取るに足らない動物

もし600万年前の地球に宇宙人が来ていて、地球にどんな動物がいるのかレポートをまとめていたとしたら、類人猿と分かれて二足歩行を始めた猿人、つまり人類の祖先についての紹介はごく僅かかもしれない。大して重要な動物じゃなかったからだ。200万年前でも状況はあまり変わらない。活動範囲は狭く、地球環境に及ぼすインパクトはゴリラよりトンボよりクラゲより小さかった。*1

 

で、一方、現代。進化の隣人だったチンパンジーの個体数が約25万匹であるのに対して、現生人類の個体数は70億を超えている。ペンギンから象やクジラまで人類以外の大型動物が地球上に占める総質量が1億トン程度であるのに対して、人類の総質量は約3億トンに達する。活動範囲は地球全域に及び、多くの動植物を絶滅に追いやっている。

 

人類の歴史のほとんどをすっ飛ばしたけれど、600万年前をスタートとして現代に至るまでには、継続的な脳の拡大があり、最初の石器の使用があり(約250万年前)、火の使用があり(約30万年前)、現生人類であるホモ・サピエンスの登場があり(約20万年前)、アフリカからの大移動があり(約7万年前)、ネアンデルタール人の絶滅があり(約3万年前)、「狩りから稲作へ」の変化があり(約1.2万年前)、文字の誕生があり(約5千年前)、その後にいわゆる有史時代の文明がある*2。ちなみに2千年前の人口は約2.5億人で、産業革命前夜の17世紀半ばで約7.5億人程度だった*3

 

取るに足らないチンパンジーの一種だった人間をここまで発展させた要因は何だったのだろう。本書は他の動物と人間との一番の違いを考える。

 

ヒトの最大の特長

他の動物になくて人間だけが持つ能力を考えるとき、言語の使用というのは真っ先に挙がる要素の一つだと思う(もちろんそれは、脳の拡大や柔軟な声帯といった生物学的な基本パラメータ設定の上に成り立っている)。

 

けれど、意思疎通を図るために言語を使うのは人間だけではない。蜂や蟻は洗練された方法で食糧のありかを伝達する。音声言語を使う動物も多い。たとえばベルベットモンキーを研究している動物学者は「気をつけろ!ライオンだ!」と「気をつけろ!鷲だ!」が別々の鳴き声で使い分けられていると解析する。

 

そう聞くと「いや、人間の言語は他の動物のそれよりもずっと複雑だ」と言いたくなるかもしれない。ここで少しだけ考えてみる、「複雑」っていったいどういう意味だろう。単語が多い?センテンスを作れる?感情を表現できる?文字にして次世代に伝えられる?人間の言語の複雑さの本質は何だろうか。

 

本書によれば、人間だけが、物理的な実体がないフィクションの存在、つまり神や貨幣や国家や法人(あと愛とか)を信じられる認知能力を持っており、それらを扱う言語を有している。アフリカの片隅で慎ましく暮らしていたホモサピエンスが現在の地位を築いた最大の理由はこの能力にあると本書は主張する。

 

チンパンジーに「俺のバナナとお前のバナナを交換してくれ」と交渉することはできる。けれど、「いま俺にバナナをくれればお前は死後にチンパンジーの天国で無数のバナナを手に入れられる」と説得することはできない。

 

なぜこの違いが重要なのだろう。それは、この能力によって、会った事もない無数の他人との協力が可能になるからだ。チンパンジーにも社会はあるし仲間と協力もする。けれど、その範囲は顔見知りの同じ集団内に限られる(150匹ぐらいが限界らしい。これは、「ダンバー数」と呼ばれる、人間が一定の関係を保てる友達の限界数とも一致する)。一方で、たとえば「この紙切れを持っていけば、会った事がない人でも食べ物と交換してくれる」というフィクション、つまり貨幣の交換価値が信じられていれば、顔見知りの範囲を超えた協業が可能になる。

 

有名な話だが、人間とチンパンジーのゲノムはわずか1.6%程度しか差がない。1対1で戦ったら人間はチンパンジーにボコられて終わりだ。10対10でもフルボッコだろう。けれど、150の閾値を超え、さらに1000や2000の集団になれば、間違いなく人間に優位性がある。つまり、人間の強みは個体レベルではなく集団レベルで初めて発揮される。本書では、共通のフィクションを信じて集団を組織する人間の能力を"mythical glue"(神話的な/想像上の結びつき)と表現する。

 

なお、ここでいうフィクションは「嘘」とは意味合いが異なる。再びベルベットモンキーの例だが、彼らはライオンがいないのに「気をつけろ!ライオンだ!」と伝えて仲間を追い払いバナナを独り占めしたりする。嘘つくだけならサルでもできるのだ。幸か不幸か人間にしかできないのは、"physical reality"(物理的なリアリティ)と"imagined reality"(想像上のリアリティ)を同時に生きることである。

 

そして神になる

さて、以上が本書のエッセンスであり、あとはこの「認知革命」をベースに人間が具体的にどんな発展を見せたかの概説が延々と続く(「認知革命」と並べて「農業革命」と「科学革命」を主要な革命として挙げている)。

 

最終的に本書は、バイオエンジニアリングと身体の機械化によって人間は今と全く異なる生物になるだろうとの見通しを立てる。人間を不死の存在にすることを目指す「ギルガメッシュプロジェクト」を紹介し、2050年には人間が"a-mortal"という状態に至るという説に触れる。"a-mortal"というのは、"immortal"(不死)ではないけれど銃で撃たれたり交通事故にあったりしなければ死なない、つまり病気や老衰からは自由となった状態を指す。

 

そして、「今と全く異なる生物になる」というのは、単に身体や遺伝子を含めた物理的な内実が変わるという意味ではない。ヒトの認知能力や言語能力は生物学的なパラメータの上に成り立っている。とすれば、そのパラメータ設定をいじることで、認知の枠組みそのものが変わる可能性がある。ネアンデルタール人の観客にハムレットを上演しても理解できないように、未来の人類が考え表現することは我々には全く理解できないものかもしれない。ヒトになった猿は、ついに神へと進化する。自分が何をしたいかも、どこへ向かうかも分かっていない神だけど。

 

ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス」は2011年にヘブライ語で原書が発表され2014年の英語版を含めて30言語以上に翻訳されている一冊。日本語版の発売予定は不明。

*2016/7/5追記:河出書房新社から日本語版の発売決定

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

 

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福

 

  

補足1:「昔の人は意識が低かった」で片付けていいの?

さて、ここからは補足。フィクションを信じる想像上の結びつきが人類を発展させたとする本書の総論はとても面白いと思うのだけど、この本、科学や産業の発展といった各論の考察になるとかなり「ゆるふわ」な説明をしているという印象を覚えた。例えば、近代科学が発展した要因や前近代との違いについて次のような説明をする。

"Then came the Scientific Revolution and the idea of progress. The idea of progress is built on the notion that if we admit our ignorance and invest resources in research, things can improve."

「そして科学革命と進歩の概念が現れた。進歩の概念は、我々が自らの無知を認めて研究に投資をすれば物事は進展するのだという考えの上に築かれている。」

"It was that people seldom wanted to extend much credit because they didn’t trust that the future would be better than the present."

(注:信用創造による近代経済の発展がなぜ前近代には起こらなかったかを説明する箇所)「人々は信用を拡大させる事をほとんど望んでいなかった、なぜなら未来が現在よりもよいものになると信じていなかったからだ。」

こんな感じで、「Aが発展したのはBという認識があったから」「Aが発展する以前の人々はBという認識を持っていなかった」みたいな説明が多い。正直、読んでいてホントかよと思った。フィクションを信じる認知能力が人間の発展の基盤になったという仮説には妥当性を感じる。でも、個別の科学技術や産業の発展の要因まで、認識の有無に帰してしまっていいのだろうか。卑近な話に置き換えると、例えばビジネスのプロジェクト進捗が遅延しているときに、遅延原因を「遅延に対する意識の低さ」としてしまったら遅延は解消されないと思う。反対に、プロジェクトがスケジュール通りに終わったとして、うまくいった原因を「スケジュール遵守の意識が高かった」と定義しても何も学べない気がする。「近代以前の人々は発展の意識が低かった」という説明は、近代以降はみんな「意識高い系」なヤツらになったとか言っているだけに聞こえる。。

 

補足2: 別エントリの紹介

本書で網羅されている領域は生物・経済・政治・テクノロジーなど広範に跨る。この本をハブとして様々な領域に関心を向けるのは楽しそうなので、関連エントリとしてブックリストを作ってみた。こちらも是非どうぞ。

 

また、このエントリの冒頭でジャレド・ダイアモンドの名を出したが、「銃・病原菌・鉄」について、漫画家の小島アジコさんのイラスト解説記事が面白かったのでついでに紹介しておく。

 

*2016/11/07追記。続編の未来予測本もレビューした。


 

*1:と、本書に書いてあるのだが、何をもって「環境に及ぼすインパクト」の尺度としているのかは書かれてなくて不明。。

*2:タイムラインは全て本書の数字を使用。有史以前の年代数字って本やwebページによってけっこうバラつきがある。なので細かい数字よりも前後関係がわかることが重要な気がする

*3:マッシモ・リヴィーバッチ「人口の世界史」より