未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

ベンチャーキャピタルの起源は捕鯨にあり? - VC: An American History

VC: An American History (English Edition)

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」、更新されています。今回は無料公開記事です。ぜひご覧ください。

www.fsight.jp

 

米国におけるベンチャーキャピタルとリスクテイク精神の歴史をハーバード・ビジネス・スクール教授が説き起こすトム・ニコラス『VC: An American History』を紹介しています。

 

ここではスピンオフ的な小話を書きますが、本書のユニークな点は、ベンチャーキャピタルの起源を19世紀半ばの捕鯨産業に求めている点です。

 

石油に取って代わられるまで、鯨油は貴重なエネルギー源で、捕鯨は米国における巨大な産業のひとつでした。捕鯨に成功した船長は莫大な富を手にします。現在のマサチューセッツ州のニューベッドフォードは19世紀半ばまでその中心地で、いまのシリコンバレーのように一攫千金を目指す者たちが集う一方で、起業家にあたる船長たちと資産家とを仲介するベンチャーキャピタルのような稼業を行う投資家も蠢いていたようです。

 

注目すべきは投資に対するリターンの分布で、今日のスタートアップ起業への投資と同じように、ほとんどの航海は失敗に終わり大赤字になる一方で、ごくわずかの成功した航海が大半の利益を稼ぎ出していました。

 

ただし、利益分布の構造は似ていても、例えば現在のテック企業のスタートアップに比べると、この「捕鯨スタートアップ業界」は当然ながらもっと粗野で超絶ブラック産業だったようです。

 

これは、多くの人が「名前は知っているけれど読んだ事はない」でお馴染みのハーマン・メルヴィル『白鯨』の世界そのものですが、捕鯨航海は比喩ではなく命がけです。

 

『白鯨』のエイハブ船長は過去の航海で足を負傷してそのリベンジに燃えて巨大なマッコウクジラのモビィ・ディックを追い求めますが、実際は捕鯨に失敗したまま帰港した船長は信用を失って二度と航海に出られない場合も多かったようです。

 

従って一度航海に出た船は鯨を捕まえて成果を挙げるまでは何年も帰れず、船員の脱走も日常茶飯事だったようです。うまくいかないまま借りた金だけが膨れあがって破滅に向かう事業のように、「このまま撤退するわけにはいかない」と無謀な航海を続けて沈んだ船がいっぱいあったのだろうなと想像します。捕鯨とテックスタートアップの比較を表にまとめるとこんな感じです↓

 

こうやって見ると、起業に失敗しても、心は折れるけれど、船底を鯨に折られて命を落としたりはしないので、現代人は気楽にリスクを取ればいいのではないかと無責任に言いたくなります。

 

銛でマッコウクジラを刺さなくても、ビジネスモデルとコードで投資家と消費者の心を刺せれば大金がつかめる平和な時代に生まれてよかったです。

 

もっとも、「市場」という巨大な生き物の方が、モビィ・ディックよりもよっぽど気紛れで動きが読めない手強い相手なのかもしれませんが。

 

『VC: An American History』は『ベンチャーキャピタル全史』として2022年9月に新潮社から日本語版も出るそうです。