未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

理性は誤解されている - The Enigma of Reason by Hugo Mercier, Dan Sperber

The Enigma of Reason

 

人間は”予想通りに不合理”に行動する。

でも、なぜ?

 

ともにフランスの認知科学者であるユーゴ・メルシエとダン・スペルベルは、本書"The Enigma of Reason"(理性の謎)で、人間の理性とは何かを見直す。

 

まだ2月だけど2018年ベストの一つに選ぶだろう本。

 

バカだからバイアス?

人間は合理的な意思決定をする存在、素朴にそう考えられていたのは昔のことだ。行動経済学や心理学は、人間の意思決定がいかに不合理でバイアスのあるものかを「ヒューリスティクス」として過去数十年にわたり理論化した。

 

たとえば「確証バイアス」として知られる現象。自分の考えに一致する情報ばかり集めてしまう傾向のことで、私は晴れ男だとか雨女だとかいうのもこの一つ。

 

でも、一体どうしてバイアスがあるのだろう。簡単な説明は、人間の認知リソースが限られている、つまりバカだから。世界的なベストセラーになったカーネマンの「ファスト&スロー」などが説明するように、多少バイアスがあっても便利な直感と、論理的思考との相互作用で人間は判断を行う。けっこうバカでもだいたいうまくいくように、我々は脳のリソースをやりくりしている。

 

では、コンピュータのメモリやCPUを増強するように、認知リソースが増えればより合理的な判断ができるのだろうか。そんなことはなくて、我々が理性(Reason)と呼んでいる能力は、そもそも合理性や論理性を目指しておらず、特殊な環境でだけ役立つ能力として進化した。これが本書の仮説である。その環境とは、集団での協力、つまりソーシャルな環境だ。

 

理性はハイパーソーシャル・ニッチ

他の動物と比べた人間の特徴は、他人との協力にある。群れを超えた見ず知らずの個体とも複雑な協力ができるから、社会が発達する。

 

暗い環境で生きるコウモリが超音波を使えるように、人間は集団の中で自分の意見を通し他人を説得するためのニッチな能力として「理性」を進化させたのではないか。メルシエは次のように語る。

 

"理性とは、広くすべての動物にとって有利な適応ではない"

"Reason is not a broad-use adaptation that would be advantageous to all kinds of animal species."

 

"理性とは、ハイパーソーシャルでニッチな環境に適応するために人間が自分自身で作り上げたものだ" 

"Reason is an adaptation to the hypersocial niche humans have built for themselves. "

 

自分の意見なら反対意見でも守る

この仮説に立つと、認知バイアスにも別の側面が見えてくる。本書によれば理性の主要な機能は次の2つ。

 

  1. 自分の意見を正当化する
  2. 他人の意見を評価して、十分な理由がある時だけ、受け入れる

 

本書での具体的な実験例を紹介する。街頭で社会問題への賛否を尋ねるアンケートを記入してもらった後で、気付かれないように回答用紙の質問文を真逆の意味にすり替える。たとえばある問題に強く賛成していた人は、強く反対する回答に勝手に変わる。その上で「なぜその意見にしたか」を尋ねる。すると、異変に気付いた人は半数以下で、残りは、自分の意見とは真逆の回答を選んだ理由を説明する。

 

内容にかかわりなく、自分の意見ならばそれを正当化する理由を探す。「確証バイアス」は「マイサイドバイアス(myside bias)」と呼ぶ方が正しい。で、このバイアスは、議論に勝って他人を説得するという目的のためには、あった方がむしろ好都合なのだ。だからこれは理性のバグでなくて機能である、と本書は述べる。

 

とはいえ、自分と異なる意見を全て拒否していたら集団の議論が機能しない。だから他人の意見を評価するのも理性の主な役割だ。ただし、他人の意見は十分な理由がある時だけ受け入れる。別の実験例によれば、同じ意見を自分の意見としてチェックするときよりも、他人の意見としてチェックする時の方が誤りを見つけやすい。自分に甘く、他人に厳しいのが理性のデフォルトなのだ。

 

このように、独立した知性として理性を捉えるのではなく、他人との相互関係に注目するのが本書のアプローチである。前者をIntellectualist approachと呼ぶのに対して、本書が採る後者をInteractionist approachと呼ぶ。

 

理性の進化は社会の変化に追いついていない

さて、理性が他人を説得する機能として進化したのだとしたら、説得に勝った側の意見が本当に正しいかをどう担保するのだろう。本書では「反証可能性」に注目したカール・ポッパーなどに触れながら、議論に勝つかどうかと、真に合理的・論理的な判断をどう行うかとの緊張関係をひも解く(そっちを真の理性/Reasonと呼ぶだけなんじゃないか、、というツッコミは本書に向けられそうだ)。

 

議論に勝つことが手段でなく目的化してしまう危険を人間の理性は持つ。メルシエは、環境の変化が早すぎて自然選択が追いつかなかった生物や身体機能の例を挙げながら、理性もその一つなのではないかと語る。本書の存在はニューヨーカー誌の以下の記事で知った。ここではいわゆるフェイクニュースやポスト真実と結びつけて「なぜ事実が人の意見を変えないか」を、自分を正当化する理性の機能(の行き過ぎ)として紹介している。 

 *本書の他に2冊の本を紹介している記事

*トランプ時代は「国全体が認知科学の実験をしているみたいな状態」とも。

 

感想:正しくなくても社会は回る

さて、ここからは私の感想。人間の意思決定に潜むバイアスや不合理を説明した本は数多くあるけれど、本書の新しい点はその根拠を人間の集団性・社会性に求めている点だと思う。理性はより良い判断を支える能力ではなくて、他人を説得して社会の中で有利に生きるための機能である、と。

 

これを読んで思い出したのが「吉幾三問題」という大好きな命題。社会学者の宮台真司がむかし命名したもので、ググると出てくるけど概要はこんな感じ。吉幾三が上京して喫茶店のバイトで店番をしていたとき、ある客がウインナーコーヒーを注文した。生クリームをコーヒーに浮かべる「ウインナーコーヒー」を知らなかった吉幾三は、ウインナーを焼いて、コーヒーと一緒に出してしまった。ところが、客は何も言わずに出されたものを食べて帰っていった。

 

つまり、コミュニケーションが成立しているかどうかと、コミュニケーションの内容が正しいかは関係が無い。言い換えると、正しくなくても社会は回る。

 

これってまさに、人間に社会性があるからできる芸当で、理性のなせるワザだ。

 

で、本書でも指摘されていることだけど、この社会性が課題の解決にいつも貢献するとは限らない。全員が間違っている可能性があるから。ちなみに吉幾三は店に帰ってきた店長に怒られて誤りに気付いたらしいが、帰った客は永遠にウインナーコーヒーを誤解したままかもしれない(この命題のエピソード自体どこまでホントなのか不明ではあるが)

 

似た問題は日常にもあって、たとえば会議をしていて、本当は間違っていると自分は思っていたが、参加者全員賛成しているから黙っていた(そして後になってやっぱり問題が起きた)みたいな経験はないだろうか。

 

自己正当化できる理由さえあれば集団や社会は動く。でもそれが長期的に正しい判断なのかはわからない。進化の過程で飢える期間が長かった人間は脂肪を蓄える能力を身につけたけれど、現代ではかえってそれが健康上のリスクをもたらす。同じように、進化の過程で集団での協力という社会性を人間は身につけたけれど、社会的なつながりを保つインフラが整った現代では、あまりにも社会的すぎる(hypersocial)ことがかえってムダになったりリスクになるのかもしれない。

 

ヒューゴ・メルシエ、ダン・スペルベル著"The Enigma of Reason"(理性の謎)は2017年4月に発表された一冊。日本語版の発売予定は不明。

 

The Enigma of Reason: A New Theory of Human Understanding

The Enigma of Reason: A New Theory of Human Understanding