想像力は無限ではない? ファスト&スローを書かせた理論と友情 - The Undoing Project by Michael Lewis
2017/01/22 初出
2017/07/07 日本語版発売につき更新
マイケル・ルイス「かくて行動経済学は生まれり」として2017/7/14発売
The Undoing Project: A Friendship that Changed the World
ある男がいたとする。彼は90歳近い高齢で、癌が全身に転移している。助かる見込はないと考えた医師と家族は手術などの措置を断念しており、既に意識がはっきりしない状態にある。さて、次のどちらが起こる可能性がより高いだろう。
(A)彼は1週間以内に亡くなる
(B)彼は1年以内に亡くなる
Aと思ってしまうかもしれないが、「どちらが起こる可能性がより高いか」という質問なら、彼の病状にかかわりなく答えはBになる。1週間以内に亡くなる確率は1年以内に亡くなる確率の一部で、ベン図にするとAの事象はすっぽりとBの事象に収まるからだ。でも、直感ではAが正しいように思える。
これは「連言錯誤」(Conjunction Fallacy)と呼ばれる認知バイアスのひとつ。この例はもしかすると「問題の出し方が悪い」とかツッコミを入れられるかもしれないけれど、特徴的な言葉がストーリーとして並んでいると、人間はそれに引っぱられて基本的なロジックを無視してしまう。
「マネー・ボール」などの著作があるマイケル・ルイスによる本書"The Undoing Project"は、こうした認知バイアス研究の先駆者であるイスラエル出身の心理学者ダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーの評伝だ。
彼らが理論化するまで、社会科学の領域における人間は、現実とかけ離れた合理的な行動を取る存在と前提付けられていた。彼らの研究は行動経済学と呼ばれる領域の先駆けとなり、カーネマンの著作「ファスト&スロー」は世界的なベストセラーになった。
科学の世界において共同研究は珍しくない。でも、カーネマン(以下ダニー)とトヴェルスキー(以下エイモス)は、妻から「夫婦より密接」と言われるほど親密な仲だった。セクシャルな関係を除くあらゆる意味で、2人は恋人だったとマイケル・ルイスは語る。本書は2人の生い立ち、出会い、そして別れまでのノンフィクションである。
目次
おかしな2人
2人のキャラクターは正反対だった。社交的で自信に満ちたエイモスと、内向的で疑い深いダニー。エイモスはあらゆるパーティーで人気者となり、ダニーはパーティーなんか行かなかった。エイモスとは久しぶりに会ってもすぐに打ち解けられる。ダニーとは昨日会っていてもまた初対面みたいに始めないといけない。エイモスは非論理的な議論があれば叩きつぶし、ダニーはその議論の中に何か正しい部分はないかと問いかけた。
性格は対照的だったけれど、彼らはどちらも人間の心がどう機能するかに興味を抱き、研究開発を重視する「実験国家」イスラエルで科学の道を志した。
そして、心理学者としての2人のスキルは補完的だった。ダニーがアイデアを出し、エイモスが詳細な分析手法を詰める。2人の共同研究スタイルは、閉め切った部屋でひたすら何時間も話し合うというものだった。1960年代の終わりに彼らが最初の論文に取りかかったとき、部屋の外にいた人間は2人の笑い声を何度も漏れ聞いた(ダニーと違ってエイモスは自分が言ったジョークに自分でも笑うので、声はより多く漏れてきた)。
最初の論文は、例外かもしれない少数のサンプルから一般的なルールを導いてしまう「少数の法則」を扱ったものだった。PCもない1970年の作業で、2人はノートに書いた論文を1行ずつ検証した。執筆が完了したとき、共同研究者としてどちらの名前を先に出すか、どちらも決められなかった。結局、コイントスをしてエイモスが勝ち、トヴェルスキー&カーネマン名義の最初の論文が生まれた。「心理学のレノン&マッカートニー」*1の誕生である。
それ以降、彼らはイスラエルと米国を行き来しながら、数々の理論を発表した。本書でエイモスとダニーの思考の変遷を一緒にたどると、それらが生まれた背景をのぞける。特に、本書のタイトルにもなっている、人間がどうやって現実を「なかったことにする」(undoing)かの研究には、現実とは何なのかについての示唆がある。
可能性の雲
クレーン氏とティー氏は同じ時刻に出発する異なる航空便を予約していた。渋滞によって空港への移動が遅れ、どちらも出発時刻を30分過ぎて到着した。
- クレーン氏は、予約した便は定刻通り出発したと告げられた。
- ティー氏は、予約した便は定刻から遅れて、ちょうど5分前に出発したと告げられた。
さて、どちらがより憤慨し後悔するだろう?
これは2人が設定したケースのひとつ。飛行機に乗れなかったという事実は同じだけど、多くの人は、ティー氏の方がフラストレーションが強いだろうと考える。「あと5分早く着いてさえいれば」と後悔するだろうから。
人間の感情を構成する要因は、事実だけではない。「起こらなかった事実」も感情に影響する。事実をなかったことにしようとする後悔などの感情を2人は「反事実感情」と呼び、エイモスは人間の現実理解を次のように記した。
“Reality is a cloud of possibility, not a point."
「リアリティとは点でない。可能性の雲である。」
想像力とは無限を有限に変える道具
でも、「起こらなかった事実」というのは「起こった事実以外の全て」という意味なので、考えようとすればホントは無限に設定できる。けれど、ある反事実は想像をかき立てて感情に強く影響する一方で、別のファンタジーは想像にもあがらない。
つまり、人間が何を想像して何を想像しないか、そこにもバイアスと傾向があるのだ。
エイモスは、反事実感情の強さには2つの変数があると考えた。起こらなかった選択肢の望ましさ(desirability)と、起こりやすさ(possibility)である。ダニーは次々と例を考えた。ヒトラーの登場をなかったことにするにはどうしたらいいだろう?画家になりたかったという彼の最初の夢を叶えてあげればよかったのではないか?他になにかある?
エイモスは答える。いや、ヒトラーが女性だったことにすればいいんじゃない?そうすれば確率は1/2だ。画家になるよりは可能性が高いだろ?
なぜか、ヒトラーの登場をなかったことにしようとする時、あるケースは想像しやすくて、別のケースには想像が及びにくい。そしてそれは必ずしもそのケースが実際に起こり得た可能性の高さとは一致しない。目立つ要素はなかったことにしようとするけれど、目立たないが確率の高い要素は放置する。そして、たとえばWindowsでCtrl + Zキーを何度も連打して動作を取り消すのがめんどくさいのと同じように、なかったことにしないといけない要素があまりにも多いと、人間は反事実を想像したり後悔したりすることもなくなる。時間が経つと多くの精神的な傷が癒えるのもこの効果かもしれない。
マイケル・ルイスはまとめる。人間の想像力とは、どこまでも限りなく飛んで行くもの、ではない。無限の可能性を持ち得てしまう現実を縮小して、理解できるものに変える道具なのだ。エイモスは論文に使えるかもしれないネタとして、次のようなメモ書きを残していた。
"Man is a deterministic device thrown into a probabilistic Universe."
「人間とは、確率論の宇宙に放り込まれた決定論的な装置だ。」
「人間本来の愚かさ」
そして、ストーリーテリングが巧みなマイケル・ルイスは、このundoingの理論を、現実のエイモスとダニーの関係にもオーバーラップさせる。親密だった2人の間には、やがて距離が生まれ、別れに近づいていく。その過程は「〜さえなかったら」「〜していなかったら」と読者に反事実感情を抱かせる。
けれど、そう思う感情にもバイアスがはたらいているのかもしれない。認知バイアスは、目の錯覚と同じで、理屈が分かったからといって無くすことはできない。人間のエラーを研究した彼らの理論は、発表当時、合理的な存在として人間を扱っていた経済学者や心理学者から「人間をバカにしている」と批判された。でも、そうでなく、彼らは人間の誤りやすさ(fallacy)を認めてそれを前提にした制度や意思決定プロセスを設計することを志向していた。自分たちが研究しているのは、人工知能(artificial intelligence)ではなくて、人間本来の愚かさ(natural stupidity)なんだ。エイモスは別の研究者にそう語っていたそうだ。
1996年、エイモスは享年59歳で死去した。本書にはエイモス晩年のふたりの最後の交流も描かれている。2002年にダニーはひとりでノーベル経済学賞を受賞し、著書「ファスト&スロー」は世界的なベストセラーになった。同書の冒頭には「エイモス・トヴェルスキーを偲んで」と献辞が捧げられている。
マイケル・ルイス著"The Undoing Project"は2016年12月に発売された一冊。日本語版の発売予定は不明。日本語版「かくて行動経済学は生まれり」は2017/7/14発売。2人が出会うまでの章は冗長だけど、後半は彼らの理論もつかめて人間ドラマとしても楽しめる。あと、いくつか引用したけど、エイモス・トヴェルスキーはアインシュタインばりの名言製造器だと思った。
なお、アメリカでは発売時期が大統領選挙の翌月だったこともあり、「専門家はなぜトランプ勝利を予想できなかったか」という文脈や「トランプはいかに人間の認知バイアスを利用しているか」といった文脈でも本書が語られているようだ。
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*1:英ガーディアン誌による本書のレビュータイトルから借用