ドイツ映画「ありがとう、トニ・エルドマン」が描くグローバルビジネスというサブカルチャー。そして、ラストダンスは私に
2017年のアカデミー外国語映画賞にもノミネートされたドイツ映画「ありがとう、トニ・エルドマン」がめちゃくちゃ良かった。
簡単にあらすじを説明すると、グローバル企業でキャリアを重ね故郷のドイツを離れてルーマニアで働く娘のイネスの職場に、イタズラ好きな性格の父が予告もなく尋ねてくる。一度は追い返されるが、謎のカツラと入れ歯で変装した父は「トニ・エルドマン」と名乗ってイネスが行くところに神出鬼没で現れる・・
本作の中心にはユーモアと親子の愛があって、映画館で何度も声を出して笑ったし、泣きもした。親父ギャグのウザさも、子を想う父の愛も万国共通だ。ただ、この記事ではユーモアにも親子愛にも触れない。この映画には単なる父と娘の人情ストーリーに留まらない多層的な広がりがあって、そっちを語りたい。
具体的には、この映画のグローバル・ビジネスの描き方のリアルさと、人生で何に時間を使うべきかという本作のテーマについてである。ではどうぞ。
グローバルビジネスという「サブカルチャー」
本作の主人公イネスはコンサルティング会社で働いている。クライアントはルーマニアの油田で事業を行う石油会社だ。
ニューヨーク映画祭で上映されたときのプレスカンファレンスの動画がYoutubeにアップされていて、その中でこんな質問が記者から挙がっている。
「この映画が描く国際ビジネスの世界について質問です。彼らは削ぎ落とされた、ほとんど不毛とも言えるような英語を喋り、そして独自の作法を持っているように見えます。どうしてこうした『サブカルチャー』に興味を持ったのでしょうか」(動画の18:50ぐらいから)
イネスが勤めるコンサルティング会社をはじめとして、この映画のグローバルビジネスの世界では、会議中や仕事仲間には英語を使うけれど普段はドイツ語などローカル言語を話す。そこには一種独特の用語体系やゲームのルールがある。
サブカルチャーという言い方はその雰囲気をよく言い得ていて、監督のマーレン・アデも主演女優のサンドラ・ヒュラーもその言葉が出たところで笑いながら復唱している。そして監督は次のように答える。
「同世代の女性に取材をしてキャラクターを考えました。起業家にするといった選択肢もあったのですが、コンサルティング会社がいないと現代のビジネスは成り立たないという点が面白いと思いました。」
「企業は全てを内製で行えないため外部のコンサルタントを使うという面もありますが、同時に『責任のアウトソーシング』も行われています。誰が何に対して責任を負っているのかが(現代のビジネスの世界では)とても複雑になっています。」
この回答は作中のセリフに反映されている。イネスはクライアントである石油会社の役員に対して、事業の採算性向上のために石油採掘場の現場管理のオペレーションに外部委託会社を使う提案をしようとしている。
これは同社の石油採掘現場の人間からすると自社従業員の大量解雇を意味する。役員にとっては重い決断だ。イネスは語る。「(あの役員は)合理化をしたいのだけど責任は取りたくない。だから私たちが汚れ役になる。」
このセリフだけでも十分面白いのだけど、本作はさらに細かいレベルでビジネスの現場をリアルに表現する。
たとえば次のようなシーンがある。前半のクライアントへのプレゼンのシーン、イネスは「採掘現場の責任者が出してきた数字は信用できない」と役員に説明する。そして映画の後半、彼女は採掘現場を実際に訪れて現場の責任者に会う。「もっとしっかりした数字を出してもらわないと」と迫るイネス。現場責任者との間には緊張が走る。(ちなみに、関係ないはずなのにトニ・エルドマンことお父さんもその場になぜか同席する。)
この一連のやりとり、同席して黙りこくっているトニ・エルドマンお父さん同様、映画を観ても何が起こっているのか分からない人も多いのではないだろうか。
背景を推測して解説してみよう。イネスはクライアントに対して「外部委託会社を使うとこれだけコストが下がりますよ」と提案したい。でもそのためには、まずクライアントが自社でやっている現場管理業務がどの程度コストがかかっているかを把握しないといけない。そうしないと「現状からこんなにコストが下がりますよ!」と差を示せないから。けれど、その現状コストは、仮説を積み上げて試算はできるが、正確な数値は現場の人間に協力してもらって算出しないといけない。
ところが、現場の人間はそんなコスト算出はしたくない。だって自分たちの解雇につながるかもしれないのだから。おそらく、採掘現場の責任者は実際よりも安くデタラメなコストを提出したはずなのだ。「そんなにコストかかっていないですよ」と示すために。そこで、イネスは「本当はもっとかかっているはずだ」と問い詰めようとしているのだろう。ザッツ汚れ役。
ちなみに、現実のプロジェクトではこうした問題が発生しないようにするために、目的を明かさず情報を収集したり誰か現場に詳しい人をこっそり味方につけたり一定の情報が集まったら細部はあきらめて試算だけで決断をするはずだ。
・・んで、映画はこうした詳しい背景は全然説明しない。そもそもこんな細かい設定、本筋には関係ないし。
だけど、この映画がすごいのは、こうした詳しい背景を雑に扱わないでひとつひとつのセリフに落とし込んでいる点だ。しかもそれは本筋をジャマしないよう最小限の言葉で状況を暗示するように抑制されている。どんだけしっかりした取材をするとこんな脚本が出来上がるのだろう・・
現代人の裁断された時間
さて、こうしたビジネス描写のリアルさに加えて、ただの父と娘の衝突と和解だけではない現代的な不安が本作には影を落としている。それは「本当はもっと大事なことに時間を使わないといけないのではないか」という不安だ。
マイクロソフトの調査によれば、多数のスクリーンから絶えず送られるメールやメッセージの通知に晒されて、現代人が集中力を持続できる時間はわずか8秒で、これは金魚にも劣る。米国の労働者はメールチェックだけで1日6.3時間を使うという調査もある。
なお、こうした過負荷の悪影響を考慮して対策を取る企業もある。この映画が作られたドイツはそうした取り組みの先進国で、フォルクスワーゲンは夕方18時から翌朝まではメールサーバーを停止して業務時間外にメールを見なくてよいようにしている。
「忙しさに追われる人々の前に、自由気ままな存在が現れて、大切なことを教えてくれる」
これはおそらくコメディ映画の王道で、日本ならそれこそ男はつらいよの世界だ。
でも、残念ながら現代人の時間は自由気ままなフーテンの寅さんに大切なことを教えてもらうヒマもないほど裁断されている。主人公のイネスは四六時中スマホを手にして仕事に追われていて、本作の寅さんであるところのトニ・エルドマンには、たとえば長いセリフで娘に何かを説く時間は与えられていない。
かわりにあの手この手で彼は娘に接触する。そして本作のクライマックスでは、ある歌が登場する。それは、まず自分を愛することの大切さを表現している歌で、本作のテーマと完全につながっている。
そのシーンはとても感動的なのだけど、映画を観終わった後、本作には登場しない別の歌が頭に浮かんだ。今から50年以上前の1960年にオリジナルが発売された"Save the last dance for me"という歌である。
自分にとってのラストダンス
「ラストダンスは私に」という同曲の日本語版は、他の人に気が移っても最後は私と踊って、と女性が男性を待つ歌だ。
ちなみに原曲では男女の立場が逆で、男性が女性を待っている歌である。作詞したDoc Pomusというブルース歌手は、幼少時にポリオを患い、松葉杖をつきながら、さらに後年には車椅子で活動した。この曲の歌詞は、自らの結婚式で妻が別の男性と踊るのを見ていた彼の経験から生まれたものなのだ。
さて、それが映画「ありがとう、トニ・エルドマン」と何の関係があるか。これがただの「浮気するなよ」という歌なら、恋愛要素ほぼゼロのこの映画には関係ない。
でも、この歌は単に男女の関係を表現したものではないと解釈を広げてみたい。
重要でないことに囚われているうちに、大切な何かが遠ざかってしまう。これって、男女の関係に対してだけでなく、人生の時間を奪う存在すべてに対して言えるのではないだろうか。
そして、時間を奪われたり他人に流されたりしても、最後に大事にしたい何かや誰か。それがラストダンス(とそれを踊る相手)ではないだろうか。
この映画の前半で、父は娘に問いかける。お前はここにいて幸せなのか?
娘は答える。「幸せ」ってずいぶん強烈な言葉だけど、そういうパパにとって幸せって何なの?
トニ・エルドマンこと父は、結局その質問に答えられない。何がその人にとっての幸せか、親子であっても分からないし、自分にも分からないのだ。
だからこの映画は形式的なロールモデルの提示はしない。たとえば都会で消耗した人間を揶揄して田舎暮らしを薦めたりはしない。そして安易な理想論も語らない。仕事より愛に生きるべきだよね、とか決して言わない。終演近くで語られる主人公イネスの近況からもそれは明らかだ。
そのかわり、トニ・エルドマンは人生の有限性を指摘する。「義務に追われているうちに人生は終わってしまう」と。
そこから先の結論は観客にオープンに委ねられている。人生が有限なら、自分がいま時間を使うべきことや時間を使うべき相手は誰なのだろう。たいして重要でない事に人生を振り回され踊らされても、最後に残しておくべきラスト・ダンスは何なんだろう?
You can dance
踊ってもいいEvery dance with the guy who gave you the eye
君に目をつけた男と、どんな踊りでもLet him hold you tight
そいつに君を抱き締めさせたらいい
You can smile
笑ってもいいEvery smile for the man who held your hand
君に手をつないできた男に、どんな笑顔でも'Neath the pale moonlight
月あかりの下で
But don't forget who't taking you home
だけど忘れないで、誰が君を送っていくかAnd in whose arms you're gonna be
誰の胸に抱かれるかをSo darlin'
だからSave the last dance for me, mmm
ラストダンスは残しておいて
貴方の好きな人と踊ってらしていいわ
やさしい微笑みも
その方におあげなさい
けれども 私がここにいることだけ
どうぞ忘れないで
ダンスはお酒みたいに心を酔わせるわ
だけど お願いね
ハートだけは とられないで
そして私の為 残しておいてね
最後の踊りだけは
(岩谷時子による訳詞)
マーレン・アデ監督のドイツ映画「ありがとう、トニ・エルドマン」は2017年7月現在公開中。なお、もう一度言うけど「ラスト・ダンスは私に」のくだりは管理人が勝手に考えたことなので映画には一切この曲は登場しません。
*日本語字幕付きの監督インタビュー。あの入れ歯は、監督が幼い頃に父にオモチャの入れ歯を贈ったら彼はそれを何年もつけていたというエピソードから生まれたそうだ