未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

クリエイティビティとは「量」である - Ideaflow

 

Ideaflow: The Only Business Metric That Matters (English Edition)

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」、更新されています。

 

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前の記事でも言及しましたが、スタンフォード大学の経営者向け教育機関であるHasso Plattner Institute of Design、通称「d.school」の教授であるペリー・クレバーン、そしてその同僚であるジェレミー・アトレーの共著である『Ideaflow』という本を紹介しています。

 

企業にとって創造性とは何か、という問いに対して、創造性とはアイデアの「量」である、という非常にシンプルな解を提示する本です。アイデアをどう出すか、出したアイデアをどう絞り込むかの具体的なノウハウも満載の一冊。これは日本語版も出てほしいです。

 

 

アオアシのように「考えすぎ」でありたい

アオアシ(30) (ビッグコミックス)

 

技術は下手くそ。足は遅い。体も小さい。

でも、天性の視野の広さと、それに裏付けられた思考力、そして周りを巻き込む行動力がある。

 

サッカー漫画『アオアシ』の主人公はそんな設定のキャラクターだ。毎巻ほんとうに面白くて、最新の30巻も最高だった。単行本が出るたびに、一時間ぐらいで読み終わるけれどその後で何周も読み返してしまう。

 

あちこちで言われている事だろうけれど、「プロになるための機関」であるクラブユースを舞台にしている事もあって、スポーツ漫画としての面白さだけでなく、ビジネスにも通じるような話がいっぱい出てくる。言語化による共有の重要性とか、プロの時間の価値とか。

 

*時間の価値が違う、というパワーワード。なお、本記事では出版社公認でコマ投稿ができる「アル(alu)」を使ってコマを引用します

 

もっと言うと、思考力と行動力で未来を切り拓いてゆく姿って、実はスポーツよりもビジネスの世界により当てはまるのかもしれない。マンガと違って、実際のスポーツの世界は天性のフィジカルや才能が勝負を左右してしまう要素がかなり大きいのではないかと思われるからだ。

 

一方、ビジネスの世界こそ、思考力と行動力を磨けばいくらでも成長できる世界だと思う。ある程度のキャリアを重ねた人は、職場で「はじめは全然ダメだった人が意外なほど化けて成長した」という機会を目にした事が無いだろうか。ビジネス書なんかを読むと「私は最初こんなにダメな人間でした。それでも成功できました」という説明がテンプレのようによく出てくる。それはその後に続く「その成功の秘訣を読者だけに教えます」というもうひとつのテンプレとセットの場合が多いのだけれど、何十パーセントかは真実でもあると思う。

 

さて、アオアシの28〜30巻では、そんな「考え続ける事で成功した人」の化身とも言えるような「司馬さん」という40歳の元日本代表のキャラクターが登場する。

 

 

親子ほど歳の離れた16歳の主人公アシトがトップチームの練習に参加してこの「司馬さん」と交感する一連のシーンが最高だった。ちなみに、この「プロチーム練習参加編」は、公式戦でも何でもないただのクラブ練習の数日間を描いているのだけど、カタルシスの無さそうな練習の場面を中心に描いてこんなに面白い漫画ってすごくないだろうか。

 

そして、マンガのストーリー上はあまり重要なシーンではないのだけれど、若き日の「司馬さん」がチームメイトに「考えすぎ」とからかわれる回想シーンがとても印象的だった。

 

 

この「そんなことまで考えてんの?」というセリフって、最高のほめ言葉ではないだろうか。

 

なぜならば、どんな仕事でも、他人に「そこまで考えていなかった」と思わせるくらい、または「自分以上にこれを考えている人はいない」と自負できるくらい考えていないと、大きな価値って出せないと思うからだ。

 

「あそこまで考えて料理を出している飲食店は無い」

「あそこまで考えて製品を作っている企業はいない」

「あそこまで考えて顧客と話している人はいない」

ーーーこれらは全て最高の賛辞だ。

 

また、例えばミドリムシを活用した食品や化粧品で知られるユーグレナ社CEOの出雲充氏は、約10年前の2012年の著書『僕はミドリムシで世界を救うことに決めました。』の中で、「いま世界で、自分ほど、ミドリムシについて真剣に考えている人間はいないはずだ」という確信があったから事業を続ける事ができたと語っている。

 

少し脱線するけれど、新潮社のForesightに書かせてもらっている未翻訳本紹介の連載で、『Ideaflow』(アイデアフロー)という本をとりあげた。同書は「クリエイティビティとは何か?」という問いに対して、強烈にシンプルな定義を掲げる。いわく、クリエイティビティとは「量」である。一定時間内に出したアイデアの量、それがその組織や個人の創造性を測る指標だ。クリエイティブになりたければ(質は無視して)とにかくアイデアの数を出せ、と同書は推奨する。

 

アオアシの司馬さんは考える量のクリティカル・マスというか臨界点を超えたときに「ピッチ上の21人、俺よりは考えていない」という感覚を抱く。他人に「そんな事まで考えている奴はいない」「考えすぎ」と言われるほど考え続けられたら、こんな境地に達するのかもしれない。

 

 

 

最後に余談だけど、ユースの選手であるアシトがプロの選手に自分の意見を正面からぶつけて、「怒られるかな」と思っていたら「それでいいぞ」と受け入れられるシーンも感動した。なんかこれも一定以上のキャリア年齢の人間にとってグッとくるシーンではないかと思う。

 

 

ベンチャーキャピタルの起源は捕鯨にあり? - VC: An American History

VC: An American History (English Edition)

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」、更新されています。今回は無料公開記事です。ぜひご覧ください。

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米国におけるベンチャーキャピタルとリスクテイク精神の歴史をハーバード・ビジネス・スクール教授が説き起こすトム・ニコラス『VC: An American History』を紹介しています。

 

ここではスピンオフ的な小話を書きますが、本書のユニークな点は、ベンチャーキャピタルの起源を19世紀半ばの捕鯨産業に求めている点です。

 

石油に取って代わられるまで、鯨油は貴重なエネルギー源で、捕鯨は米国における巨大な産業のひとつでした。捕鯨に成功した船長は莫大な富を手にします。現在のマサチューセッツ州のニューベッドフォードは19世紀半ばまでその中心地で、いまのシリコンバレーのように一攫千金を目指す者たちが集う一方で、起業家にあたる船長たちと資産家とを仲介するベンチャーキャピタルのような稼業を行う投資家も蠢いていたようです。

 

注目すべきは投資に対するリターンの分布で、今日のスタートアップ起業への投資と同じように、ほとんどの航海は失敗に終わり大赤字になる一方で、ごくわずかの成功した航海が大半の利益を稼ぎ出していました。

 

ただし、利益分布の構造は似ていても、例えば現在のテック企業のスタートアップに比べると、この「捕鯨スタートアップ業界」は当然ながらもっと粗野で超絶ブラック産業だったようです。

 

これは、多くの人が「名前は知っているけれど読んだ事はない」でお馴染みのハーマン・メルヴィル『白鯨』の世界そのものですが、捕鯨航海は比喩ではなく命がけです。

 

『白鯨』のエイハブ船長は過去の航海で足を負傷してそのリベンジに燃えて巨大なマッコウクジラのモビィ・ディックを追い求めますが、実際は捕鯨に失敗したまま帰港した船長は信用を失って二度と航海に出られない場合も多かったようです。

 

従って一度航海に出た船は鯨を捕まえて成果を挙げるまでは何年も帰れず、船員の脱走も日常茶飯事だったようです。うまくいかないまま借りた金だけが膨れあがって破滅に向かう事業のように、「このまま撤退するわけにはいかない」と無謀な航海を続けて沈んだ船がいっぱいあったのだろうなと想像します。捕鯨とテックスタートアップの比較を表にまとめるとこんな感じです↓

 

こうやって見ると、起業に失敗しても、心は折れるけれど、船底を鯨に折られて命を落としたりはしないので、現代人は気楽にリスクを取ればいいのではないかと無責任に言いたくなります。

 

銛でマッコウクジラを刺さなくても、ビジネスモデルとコードで投資家と消費者の心を刺せれば大金がつかめる平和な時代に生まれてよかったです。

 

もっとも、「市場」という巨大な生き物の方が、モビィ・ディックよりもよっぽど気紛れで動きが読めない手強い相手なのかもしれませんが。

 

『VC: An American History』は『ベンチャーキャピタル全史』として2022年9月に新潮社から日本語版も出るそうです。

 

エリートにもYouTuberにもならなくてよい成功モデル - “Dark Horse” by トッド・ローズ & オギー・オーガス

Dark Horse 「好きなことだけで生きる人」が成功する時代 (三笠書房 電子書籍)

 

いい大学やいい企業に入るだけで幸せにはならない。そんな事は、ほとんどの親と子どもがとっくに理解している。

 

けれども、「個性が大事」「好きなことで、生きていく」といったキャッチコピーも安直には信じられない。結局、どうすればいいのだろうか。

 

・・そんなもやもやした気分を抱いている人がいたら、本書をぜひおすすめしたい。ハーバード教育大学院で個性学(science of individuality)を研究しているトッド・ローズによる本書『Dark Horse』(2021年に日本語版発売)は、新しい成功モデルを理論化する一冊だ。

 

ダークホースとは、標準的なルートではない経歴をたどって型破りな成功を収めた人を指す。彼らの共通点は、個人的な充足感(fulfillment)を追求しているうちに、結果的に成功に至った点にある。成功を追求して充足感を得るのではなく、充足感を追い求めているうちにいつの間にか個人軸の成功(personalized success)に到達するのだ。

 

ただし、これは誤解を受けやすい考え方でもあると思う。強調しておきたいのだが、本書は、生存者バイアスまる出しの「成功者」が、「社畜をやめてフリーランスになろう」といった類の主張をする本ではない。自己啓発的な本とはニュアンスが大きく異なり、再現可能で汎用性のある成功モデルを模索する一冊である。

「大きな情熱」よりも「小さなモチベーション」

本書は、受験偏重に代表される能力主義(meritocracy)の教育を「標準化モデル」と呼んで「ダークホース」のモデルと対比させる。

 

この標準化モデルは、明らかに多くの人にとってストレスで、成長するにつれて学習のモチベーションを減衰させている。本書が参照するギャラップ社の2016年の調査によれば、米国の生徒の学校意欲のピークは、幼稚園と小学校の時代だ。中学、高校と進むにつれて学習に意欲を感じる生徒の割合は減少する。この傾向は卒業して就職しても変わらず、被雇用者の67パーセントが仕事に意欲を感じていない(同じくギャラップ社の2017年データより)。

 

一方で、同じく本書が参照している「成功に対する見方」についての意識調査では、回答者の圧倒的多数が「成功を個人的に定義するとしたら、幸福感と達成感が何よりも重要だ」と回答している。ミスマッチは明らかだ。個人軸の成功を収める人生への欲求は高まる一方なのに、それに対して科学的な研究が追いついていないのが現状である、とローズは語る。

 

フロイトもアドラーもユングも、誰にでも当てはまって意欲を高める「普遍的なモチベーション」「大きな情熱」を見出そうとした。しかし、そんなものは存在しないと本書は述べる。かわりに本書がダークホースたちのルールとして挙げるのは、極めて個人的で細分化された「小さなモチベーション」(micro-motive)である。

 

この「小さなモチベーション」とは、「稼ぐのが好き」や「人の役に立つ事が好き」といった粗い粒度の好みではない。もっと厳密で、もっときめ細かく特定化された(偏った)好みや興味である。本書に登場する人物の例だと「物体を真っすぐに並べることが好き」といったレベルのものだ。この人物は技師として光ファイバー・ケーブルの伝送インターフェースの配列を設計した後、様々な紆余曲折を経て(決してまっすぐなキャリアではない)、家具と室内装飾の修理業のフランチャイズ店を全くの未経験からオープンする。

競争も戦略もリスクも大事だが一般的な意味ではない

ただし、本書は「好きなことにずっと打ち込んでいればいつか成功できる」と説いたり、リスクを無視した無謀な賭けに出る事を推奨するわけではない。

 

充足感を得るためには、リスクの考慮が必要で、競争戦略も必要だ。けれども、一般的な意味のリスクや「最適な戦略」は無視してよい。本書の用語を使うならば、重要なのは「確率」よりも「フィット」率だ。

 

どういう事か。標準化システムにおいては、リスクとは「成功の確率」だ。これは統計上の概念で、平均的な人間がある一定の状況で成功する可能性を示すものである。しかし、ダークホース的な考え方では、リスクの見積方法が異なる。リスクは、自分の幸福感やモチベーションとの「フィット」によって決まる。

 

例えば一般的に見て高い地位や収入を得られる確率が高いポジションがあっても、それが自分のモチベーションにフィットしないならば、それはハイリスクな選択肢だ。フィットで感じた小さな違和感は、いずれ充足感の追求と成功において非常に大きな違和感に繋がる可能性があるからである。

 

同様に、野球選手が自分に合ったフォームを見つけるように、競争戦略も自分にフィットするものを発見する事が重要だ。一方で、競争における「強み」は外的な要因との比較で形成されるファジーなものである。従って、自分の強みは、内省を通してではなく、行動を通して見定めなければならない。ダークホース的な考え方では、戦略を選ぶ事は、どのように試行錯誤するかという問題なのだ。

 

「ナンバーワンにならなくてもいい」けれども、私たちは決して「もともと特別なオンリーワン」ではない。自分にフィットする戦略と強み、そして何よりも自分にとっての充足感と成功の定義を、教師に、上司に、そして市場に、試行錯誤を通じて認めさせなければならない。

「個性が大事」なのに評価基準はひとつ、という罠

さて、ダークホースたちが何の分野でどのぐらい成功するのかは、定義上、事前に予測できない。本書はこれを「人生の目的地に到達するには、目的地を探してはいけない」と逆説的に表現する。

 

別の言い方をすると、ダークホース的な能力とは、例えば学力といった価値指標が既に決まっているゲームの中でハイスコアを取る能力ではなく、新しい価値指標を見つけたり、新しいゲームを生み出す能力と言えるかもしれない。

 

で、ここからは個人的な意見になるが、そうした新しい能力を測定して評価する制度や方法って、今はまだ追い付いていないが、今後どんどん確立されていくのではないだろうか。

 

これは例えば「学校の成績だけでなく内申点も評価する」といった単純なレベルの話ではなく、教育でも、企業や従業員の評価でも、もっと何重にもバラバラに評価の基準が多元化されるのではないかという話だ。

 

本書を読んで抱いた仮説であるが、例えばYouTuberやTikTokerなどを成功者のモデルにする事になんとなく違和感を感じるのは、多様な個性が花開いているように見えて、実際は再生数と広告収益という単一の価値指標で超過当競争をしているだけに見えるからかもしれない。(しかもごくわずかなプレイヤーと胴元のプラットフォーマーが利益のほとんどを持って行って行くというモデル)

 

同様に、国の教育制度が「個性が大事」と標榜するのに違和感を感じるのも、入口でどれだけ個性が大事と謳っても、結局最終的な評価ゲームが受験の一発勝負と新卒一括採用しか存在しないままだと、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない(マタイ福音書22:14)」状態が変わらないからかもしれない。

 

こう書くと「でも、ホントに個性を評価する制度なんて大規模に構築する事は難しい。だから最大公約数的な評価を行う標準化システムがあるんだよ」という事も聞こえてきそうだが、雑で乱暴な楽観をしておくと、それも変わるのではないかと思う。

 

なぜならば、テクノロジーと経済の長期的なトレンドとして、私たちが「個性を測定して分析するコスト」は明らかに下がっているからだ。

 

個性という言い方が曖昧ならば、単に「個体差」と言い換えてもいい。お気に入り商品の好みから遺伝子治療まで、私たちの個体の違いを分析して評価する技術はより高精度でより安価に実装できるようになりつつある。それが例えば個人の充足感の測定に使われたり、その測定を基にした教育効果の評価制度に応用される日も来るのではないだろうか。

 

余談だが、『データの見えざる手』で知られる矢野和男の近著である『予測不能の時代』は、「幸福」を主要なテーマとしている。他にもAIやデータサイエンス系の本で、従来であれば内面や主観、つまりは「個性」とされていた領域を定量化して扱うものは増えてきていて、ダークホースモデルの研究とも実はシンクロしている動きなのではないかと思う。

 

 

 

 

民主主義とか独裁とかってアルゴリズムが違うだけでしょ?という話

Spin Dictators: The Changing Face of Tyranny in the 21st Century

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」が更新されている。

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今月は2022年4月に発売された『Spin Dictators』という本を紹介した。ロシアのプーチン大統領をはじめとする21世紀の独裁者たちを、世論の印象操作を行う専門家である「スピン・ドクター」をもじって「スピン・ディクテーター」と定義して分析する本である。

このブログには簡単なスピンオフ話を書こうと思っていたけれど、ちょうど同時期に読んだ成田悠輔の「22世紀の民主主義」についての感想を書き始めたら止まらなくなって、連載本編より長くなってしまった。以下、5000字近くある。ざっくり言うと、独裁がよいか民主主義がよいかって、将来は大した論点にならず、もっと重要な論点がありそうだ、という話である。では、どうぞ。

21世紀は民主主義国ほど経済成長が停滞している

 まず、『Spin Dictators』についてもう少し紹介する。21世紀の独裁者たちは、旧来の独裁者が恐怖によって国民を支配していたのと異なり、経済成長と国民からの人気を背景に表面的には民主主義の体裁を維持しながら、より巧妙に権力を維持しているというのが同書の主張だ。

世界の指導者のスピーチを「暴力や軍事力への言及があるか」および「経済成長や公共サービス改善への言及があるか」の2軸で統計的に分析した同書の研究によると、プーチン(ただしウクライナ侵攻前)や、その他の「スピン・ディクテーター」たちは、実は暴力への言及が少なく、後者に言及する割合が高い。金正恩やシリアのアサドといった従来型の恐怖支配独裁者よりも、むしろ米国のオバマ元大統領といった民主主義国家のリーダーに近似しているという。

同書は、スピン・ディクテーターたちが擬態する民主主義の「ふり」にだまされず、リベラルな民主主義国家が対抗するにはどうすればよいかを説く。

さて、詳細は連載に書いたので省くけれど、ここでひとつ疑問も沸く。もし、ある独裁体制が、高い経済成長を実現していて、選挙を通じて国民の支持も得ていて、完全ではないけれどそこそこ言論の自由も認めているならば、一体何が問題なんだろう。

岩明均のマンガ『寄生獣』に、広川という市長が登場する。彼は人の脳を乗っ取るモンスターであるパラサイトの協力者なのだけど、普段はその素性を隠して、頭脳明晰・品行方正な市町としてバリバリ業務を行っている。

ネタバレになるが、程なくして彼は自衛隊に殺される。でも、そんなに有能な市長なんだったら、もしかして、彼になるべく長く市長を続けてもらった方がよかったのではないだろうか。

スピン・ディクテーターについても同じ事が言える。正体が独裁者だとしても、経済や公共サービスのパフォーマンスが高いならば、批判しようとしても歯切れの悪いものになってしまうのだ。

で、ここからは成田悠輔の『22世紀の民主主義』の話に移る。同書を読むと「今世紀に入ってからの20年強の経済を見ると、民主主義的な国ほど、経済成長が低迷しつづけている」というデータが紹介されている。実績として、21世紀になってから民主主義は独裁に負けているのだ。

無意識化・自動化する政策決定

ここで、成田の同書が掲げる構想を乱暴に要約しておく。正確な理解であるかどうかは保証しないので、興味ある方は同書を読んでもらいたい。

成田は、民主主義とはつまるところ「データの変換」であり、「みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置」であると説く。したがって民主主義のデザインに必要なものは(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズムの3点だ。

そして、ここからが面白いのだけど、入力される民意データについて、選挙という単一のデータソースに依存するのはもう止めにして、あらゆるセンシングデータや生体感知データを半意識的または無意識の民意データとして使うべきと説く。そのデータから、我々自身も気付いていないような暗黙の欲求や目的を民意として抽出する。そして、その民意の実現のためにどのような政策を実行するかを評価し決定するのは、政治家でも官僚でも市民でもなく、入力データを処理するアルゴリズム群だ。単一のデータに依存し過ぎないように各アルゴリズム群の評価結果を加重平均して、最終的な出力結果として政策が決定する。

これらの一連のプロセスは、人の介在が無くとも、自動・高速・並列でぶん回せる。ECサイトが商品のレコメンドから購入処理まで自動化されているように。有権者は「あらゆる論点にみんなが意見を持つという無理ゲーな建前」から解放されて、(意識的な)意思決定をする必要が無くなる。民主主義の自動化である。成田はこれを「無意識データ民主主義」と呼ぶ。

民主主義も独裁もアルゴリズムの違いに過ぎない?

さて、ここまででもかなり遠い目線の話をしているように聞こえるかもしれないが、この話を前提としてちょっと考えてみよう。

上記のような「データを用いた自動意思決定」の仕組みがもし実現するとしたら、民主主義と独裁の違いって、アルゴリズムの重み付けの違いでしか無くなるのではないだろうか。

政治的な意思決定のプロセスを、入力-アルゴリズム-出力という3つのレベルに分けるとしたら、おそく、民主主義国家だろうが独裁国家だろうが、入力レベルでやる事は変わらなくなりそうだ。どちらの場合でも、会議や街角での発言データや生体感知データといった民意データを収集するだろう。というか、中国はそれにかなり近い事を既に実現している。

そうすると、違いが出るのは、そこから先のアルゴリズムと出力だけではないだろうか。思いっきり単純化すると、アルゴリズムがA,B,C・・と複数存在するときに、それらを加重平均して、カッコ付きの「最適化」を図るならば、それは民主主義と呼ばれる。そして、独裁者が望むアルゴリズムAに100%の比率を全振りするならば、それは独裁制と呼ばれる。

で、そう考えると、「データを用いた自動意思決定」という政治プロセスは、底が抜けた議論をしているような気もしてくる。自動意思決定プロセスで使うアルゴリズムを、誰が決定して、どうやって人々を従わせるのだろうか。

話をいったん近視的な目線に戻すと、先日実施された参院選の選挙特番を見ていたら、連合に加盟している大小様々な労働組合や、日本医師会、全国郵便局長会など、ゴリゴリの政治支持団体を取材していた。彼らは、例えば「データ民主主義」で使うアルゴリズム群と加重平均の割合が公開されたら、自分たちの利益を最大化するようアルゴリズムと加重平均の計算割合の訂正を要求するのではないだろうか。アルゴリズムBを高く評価しろ、いやCの評価割合を上げろ、という政治闘争である。それって、今の選挙を通じた政治闘争と、実は大して変わらないのではないだろうか。利害が対立してもめた場合、採用するアルゴリズムを最終的にどうやって決めるのだろう。じゃあ、それを選挙で決めましょう!という、本末転倒で間抜けな未来がちょっとだけチラつく。。

データを神に。そして、神とは「下請け業者」である

さて、じゃあ成田が主張するような「データを用いた自動意思決定」とか「データ民主主義」の実現は難しいのだろうか。そうは全く思わない。

なぜか。まずは、ミもフタもないけれど、みんな楽になるからだ。市民も、官僚も、未来にもまだ存在しているなら政治家も、政治的な意思決定に割く工数を削減できる。シンプルだけど強力なインセンティブだ。

あとは、自分で自分にツッコミを入れると、前段で書いたような「アルゴリズムをどう決めるかをめぐって、集団同士の利害対立が起こる」という発想自体が、実は現状を前提にし過ぎた妄想なのかもしれない。

現状の機械学習やAIを用いたアルゴリズムは、中途半端な精度だ。けれど、人間がもう勝負を挑もうとも思わないほど精度が向上すれば、アルゴリズムが決めた利益分配に異議を申し立てようとする政治団体なんてものは消滅しているのかもしれない。十分に精度の高いアルゴリズムが下した決定を否定する事は、現代の文明において自動車の利用を否定したり、冷蔵庫やエアコンの利用を否定するのと同じくらい、感覚的に「有り得ない」事と見なされるようになるのかもしれない。

ここから、意図的に話をさらに飛躍させたい。データとアルゴリズムによる意思決定をほとんど誰も否定せず、人間が自ら意思決定の責任を負わなくなったとき、それはデータが「神」となる事を意味する。

もともと人間は、中世ぐらいまで、意思決定を宗教上の神にアウトソースして、丸投げしてきた。自分で物事を判断するなんて事はしないで、神の判断基準に任せて意思決定をする。神とは、どんな意思決定の責任も人間にかわって引き受けてくれる、究極の下請け業者だ。

一方、この数百年ぐらいの期間、人間は意思決定を神に外注するのをやめて、人間自身が行うように内製化してきた。人間中心主義の誕生であり、近代民主主義も資本主義もそのサブコンテンツである。

けれど、人間はもう意思決定に自分たちの工数を割く余裕も、その必要も無いのかもしれない。再び、アウトソーシングの時代だ。今度の委託先は、どんな責任も負ってくれるかわりに自分からは何もしてくれない、沈黙した神ではない。エビデンスを基に、私たち自身が気付いていない行動を提案してくれる、データとアルゴリズムという神である。

なお、上に述べたような歴史的変遷は私個人の見解ではなく、ユヴァル・ノア・ハラリが『ホモ・デウス』で展開している議論の焼き直し(または曲解)である。ハラリは、データが神となる時代を、民主主義とも独裁主義とも呼ばず、単に「データ主義」(Dataism)と呼んでいる。

「最適化」しかできないのがデータとアルゴリズムの弱点

さて、最後にちょっとだけ違う観点で補足。

たとえ政治的な意思決定や利害調整がデータとアルゴリズムを用いて行われるとしても、個人が、アルゴリズムが出す「最適な」判断から外れた行動をとる自由は担保されるべきだと思う。

一体、何を言っているか。上でしてきた話と矛盾するように聞こえるかもしれないが、例えば喫煙があらゆるデータとあらゆるアルゴリズムとあらゆるエビデンスから個人の健康と幸福にとってマイナスだと証明されても、他人に迷惑をかけなければその行動をとる自由は保証されるべき、という話をしている。

これは「愚行権」などの名称で従来から議論されてきた話だ。けれども、データとアルゴリズムは、その論点に新たな文脈を加える。

データとアルゴリズムの(少なくとも現時点の)弱点は何か。それは「最適化」しかできない事だ。グーグル検索で全く関係なさそうなキーワードを何個も入れると、デフォルトでは、相関関係がありそうなキーワードだけにしぼって検索結果を表示してくる。これが最適化の世界である。

でも、どうやら人間は、何のためだか知らないが、最適化からは外れた思考や行動をする動物のように見える。成田悠輔のプロフィールを読むと「専門は、データ・アルゴリズム・ポエムを使ったビジネスと公共政策の想像とデザイン」とある。この「ポエム」というのが、最適化できない人間の価値を象徴させているシンボルなのだろうと推測する。

ただし、この「ポエム」を守ろうとする戦いって、かなり分が悪そうにも思える。それは、自動車や冷蔵庫やエアコンの存在を否定する人と同じように見なされるかもしれない。または、オルダス・ハクスレーの「すばらしい新世界」で、あらゆる課題が解決されて幸福が実現した世界を脱出しようとする野人ジョンの抵抗と同じなのかもしれない。

「でも、僕は不都合が好きなんです」

「われわれは違うね」と統制官。「われわれは、なんでも楽にやるほうが好きだ」

「でも僕は、楽なんかしたくない。神がほしい、詩がほしい、本物の危険がほしい、自由がほしい、善がほしい。罪がほしい」

「つまりきみは」とムスタファ・モンドが言う。「不幸になる権利を要求しているんだね」

「ええ、それでいいですよ」と野人が喧嘩腰で言った。「僕は不幸になる権利を要求する」

(中略)

ムスタファ・モンドは肩をすくめた。「では、ご自由に」

ーーーオルダス・ハクスレー すばらしい新世界〔大森望・訳〕

幸福か、自由か。

これは、民主主義か独裁かよりも実は重要な論点ではないかと思える。データとアルゴリズムの世界では、民主主義だろうが独裁だろうが、「幸福」の方がおそらく目的関数になりやすいからである。

 

 

参考情報 - 自分が今まで書いたり寄稿したもので関連しそうなもの

コロナ禍を「最後のパンデミック」にする - How to Prevent The Next Pandemic by Bill Gates

How to Prevent the Next Pandemic (English Edition)

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」、更新されています。

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ビル・ゲイツがCOVID-19に対する各国の対応を総括した上で「次のパンデミック」を防ぐために何が必要かを提唱する「How to Prevent The Next Pandemic」を紹介しています。

 

ゲイツは昨年に気候変動をテーマとした「How to Avoid a Climate Disaster」を上梓していますが、どちらかと言えば公衆衛生という本書のテーマの方が慈善活動家・投資家としての彼の「本職」に近く、長年取り組んできたテーマです(もちろん本当の本職はソフトウェア業ですが)。

 

本書の刊行に合わせてゲイツはTEDでのスピーチを行なっています。ちなみに2015年にもゲイツは「The next outbreak? We’re not ready(次の伝染病? 我々は準備できていない)」と題したスピーチを行っていますが、動画の再生数の95%はCOVID-19発生後のアクセスだそうです。ゲイツは本書を「もっと早く書かれるべきだったかもしれない」としつつ、コロナ前に書いていても読者が読んでいたかは疑わしい、と吐露しています。

 

いま検索したら日本語版も間もなく刊行されるようです。

 

 

 

 

生命もアルゴリズムである - The Genesis Machine by Amy Webb

The Genesis Machine: Our Quest to Rewrite Life in the Age of Synthetic Biology (English Edition)

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」、更新されています。

 

エイミー・ウェブとアンドリュー・ヘッセルが「合成生物学」(synthetic biology)の現在と未来を紐解く「The Genesis Machine」を紹介しています。

 

伝記作家ウォルター・アイザックソンが遺伝子編集技術CRISPRの生みの親であるジェニファー・ダウドナを描いた"The Code Breaker"を別の連載で昨年紹介したのですが(同書もまだ日本語版出ていません)、同書とセットで読みたい一冊です。

「遺伝子編集技術」生みの親はコロナ禍といかに戦ったか?|翻訳書ときどき洋書|note

 

CRISPRは超乱暴に言うと「任意の遺伝子コードを切り貼りして編集できる技術」ですが、その基盤にあるのはRNAの研究です。DNAが遺伝子情報の「設計図」であるのに対して、RNAはその設計情報を基に具体的なタンパク質の生成を指示する「作業指示」にあたります。COVID-19ワクチンの主流であるmRNAワクチンもこの仕組みを利用していて、上述の"The Code Breaker"でもダウドナをはじめとする世界の研究者チームのコロナ禍での奮闘が描かれています。

 

エイミー・ウェブによる本書"The Genesis Machine"は、医療の分野だけでなく、食糧(人造肉の製造など)や環境(素材や繊維の製造)の分野にまで視野を広げて、人間による遺伝子情報編集の可能性とリスクを紹介しています。

 

合成生物学の根底にあるのは、生物の遺伝子情報をコンピュータのコードと同じようにデジタルでプラグラミング可能なものと見なす考え方だと思います。『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは、20世紀の生物学の最大の発見を「Organisms are algorithms」(生命もアルゴリズムである)と表現しています。人間をはじめとする動物を"wet computer"と見なすこうした見方は目新しいものではないと思うのですが、この生命観を世界中に最初に広めたのってリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』だったのではないかと推測します。

 

 

本文と全く関係ありませんが、管理人は『利己的な遺伝子』の存在を岩明均『寄生獣』で知ったので、利己的な遺伝子の名前を出すときはセットで紹介したくなります。