未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

文学はケータイテキストをどう扱うと効果的か

 

小ネタ記事。

 

カルチャーメディアのThe Millionsに「テキスト・ミー:フィクションにおける新しいテクノロジーについて」という記事が出ていた。


 

これを材料にして、文学はケータイのテキストメッセージをどう扱うと効果的かを考えてみる。

 

結論を先に書くと、人がケータイで見せる自分と、本当の自分は必ずしも同一ではないので、その差異を利用すると面白いんじゃないか。

 

小説の中のケータイテキスト表現

Millionsの記事では、フィクションが新しいテクノロジーをどう扱ってきたかの変遷を紹介している。簡単にまとめると次のような段階がある。

 

  • 作品の中にテクノロジーが不在の段階。現代を舞台にしているけどケータイのテキストメッセージを使う場面は書かない、みたいな状態
  • テクノロジーが登場するけど使われ方が安定していない、という段階。たとえば小説の中のケータイテキストに会話の引用符("")がついたりつかなかったり
  • 新しい表現を試す段階。ケータイテキストを、実際のスマホ画面と同じく吹き出しのバブルで表現する小説が出てきている
  • テクノロジーが当たり前のものとして表現される段階。“he typed”とか“I texted"みたいに、シンプルなタグでテキストを表現している作品が最近では多い

 

これは新しいテクノロジーが社会に受け入れられる過程とあまり変わらないかもしれない。最初は無視され、戸惑って使われ始め、もてはやされて、やがて完全に普及して当たり前のものになる。

 

他に、小説よりもドラマや映画がケータイテキストをうまく使っているという話が面白かった。むかしは不自然な会話やナレーションを入れなければならなかった状況説明をテキストメッセージで代替することで、プロットを進めやすくなったという。

 

Real-world SelfとPhone Self

そしてここからが本題。以前の記事で紹介したアジズ・アンサリは、著書“Modern Romance”(「当世出会い事情」という残念なタイトルの日本語版もあり)の中で、現代は誰もが2つの人格を有していると語る。現実世界の自分を意味するReal-world selfと、ケータイ上の自分であるPhone selfである。人はケータイで使うテキストやSNSに本心を全て見せるわけではなく、ケータイ人格を演じている。

 

 

この差異を利用した小説の具体例を見てみる。下は以前の記事で紹介した、クリステン・ルーペニアンの短編小説“Cat Person”内の一節。別れたいけどどう切り出していいかわからない女性に、男性から「最近忙しいみたいだね」というテキストが届いて、その後にどう返信するかを考えているシーン。

 

she knew that this was the perfect opportunity to send her half-completed breakup text, but instead she wrote back, “Haha sorry yeah” and “I’ll text you soon,” and then she thought, Why did I do that? And she truly didn’t know.

(書きかけでやめていたテキストを送るにはこれが最高のタイミングだと彼女はわかっていた。でもそうはせず、「ハハ、ごめんね」「また連絡する」とだけ返信した。なんでそんな事をしてしまったのだろう。自分でもわからなかった。)

 

こんな風に「本心ではこう思っているけれどもケータイでは違うコミュニケーションを取る」みたいな微妙なニュアンスを表現できる。

 

とはいえ、これは文学が昔から「感情の機微」みたいな言い方で表現してきたものと変わらない。上の例だと、別にケータイテキストを手紙に置き換えても成立するし、口ではAと言っていたが表情はBだった、みたいにケータイなしでもニュアンスを表現できる。

 

スマホ以降の時代に特徴的になったもの。それは「いつまでたってもPhone Selfしか見えてこない」という不全感だったり不信感だと思う。“Cat Person”はまさにそういう小説で、相手の男性のReal-world Selfの情報が不足したまま関係が進む(詳しくは上の過去記事参照)。ケータイ人格じゃないホントの人格が何を考えているのかわからない。もっと言うとホントの人格なんて存在しているのかどうかも怪しい。そんな感覚。

 

ソース不明でうろ覚えなのだけど、カズオ・イシグロがどこかのインタビューでこんなことを言っていた。登場人物の回想形式を取る自分の小説は「信頼できない語り手」と呼ばれる、でもそれには違和感がある。人は記憶を加工するから、何かを回想する人はみんな信頼できない語り手なのが当たり前だ。

 

回想だけでなく、ケータイテキストも人を信頼できない語り手にする。そこに書かれたメッセージを事実や本心として受け取っていいのかわからないからだ。だから、こういうテキストが作品中に登場したけど真相はこうだった・・みたいな、ミステリー/サスペンス要素や叙述トリックを使う作品がきっと出てくる。というか、私が知らないだけでたぶん既にいっぱいあるはず。

 

技術が社会を変えるのではなく

まとめとしてMillionsの記事に話を戻すと、次のように結ばれている。

It’s not just our social lives that are being shaped by the Internet, and it’s not just our politics: it’s our consciousness and our sense of time—the two things that the novel is pretty much in the business of excavating.

(インターネットによって形作られるのは我々の社会的生活や政治だけではない。我々の意識と時間感覚だ。この二つは、小説が広く掘り起こしてきたものである。)

 

技術そのものを描いた文学はすぐに風化するけれど、技術がもたらす意識の変化を描いた作品は価値が残る。フィクション作品ではないが、2017年の12月に発売された「AIアシスタントのコア・コンセプト」という本に津田大介は次のようにコメントを寄せている。

「AIが社会を変えるのではない。社会の様々なインターフェイスが変わることで我々の意識が変わるのだ。」 

AIアシスタントのコア・コンセプト―人工知能時代の意思決定プロセスデザイン

AIアシスタントのコア・コンセプト―人工知能時代の意思決定プロセスデザイン

 

*この本めちゃくちゃ面白かったのでいずれ別記事にして紹介するかも 

 

ケータイができてすれ違いがなくなった?

さて最後に余談。ケータイがなかった時代のあるあるネタで、待ち合わせで連絡が取れないから「すれ違い」が生まれて、それがたとえばTVドラマではドラマチックな演出になっていた、と言われる。

 

  

でも現代でも、Real-world selfとPhone selfとの間で「自我のすれ違い」が起こるので、ドラマチックな演出なんていくらでもできる。むしろ、連絡が取れるなら解決するようなすれ違いは大した問題じゃなくて、連絡が取れるのにすれ違いが起こるから人間関係はドラマチックなのかもしれない。

 

Still Here: A Novel

Still Here: A Novel

 

*Millionsの記事で参照されているなかではこのロシア系作家の小説が面白そうだった