未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

20年後に再評価されるYoutuberとかいるのだろうか?



ファン・ゴッホやカフカが今の時代にいてYoutuberだったらどうしているだろう。

書評と関係ない番外記事。上の騒動のニュースを見ての雑感。

 

目次

アクセス数へのオーバーフィッティング

統計学や機械学習研究で使われる「オーバーフィッティング」という概念がある。「アルゴリズム思考術」という本でわかりやすく説明されている。

 

アルゴリズム思考術:問題解決の最強ツール

アルゴリズム思考術:問題解決の最強ツール

  • 作者: ブライアンクリスチャン,トムグリフィス,田沢恭子
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2017/10/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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計算する要素を増やし過ぎると本当はどうでもいいノイズのパラメータの変動に過剰反応して結果が不安定にブレてしまうことを示す概念で、これがあるから、「使うデータが多ければ多いほど分析や決定の質が上がる」とは限らない。

 

真に重要なものでなく単に測定可能なデータに注目するこの現象はいたるところにある。「アルゴリズム思考術」ではビジネスにおける人事評価を例に挙げている。ある就職斡旋会社では、スタッフが面談の実施回数によって評価されていた。だからスタッフはなるべく短時間で面談を終わらせようとして、クライアントの就職が実際に成功するかは二の次になった。そうして、会社や上司が重視する成績指標にだけ自分の仕事をオーバーフィットさせた人間が評価されてしまう。

 

さて、上のYoutuberに関する記事内に次のコメントがある。

 

──YouTuberとしては、今後何を発信していきたいですか。

ダイキ「何を発信していきたいというよりも、まずはアクセスを増やしたいです。たとえば、音楽動画を公開してアクセスを集めるのではなくて、アクセスが集まるから音楽動画をやる、といった感じです」

 

これ、まさにオーバーフィッティングのひとつではないだろうか。目先のアクセス数にだけ過剰適応しようとしているから、信用を失う行動を取ってしまう。

 

で、上のニュースだけならダメなYoutuberを非難して終わりなのだけど、現代でモノを作ったり何かを発信しようとする人って、多かれ少なかれこの「他人の評価へのオーバーフィッティング」という罠にはまるのではないだろうか。

 

なぜ他人の評価に耳を傾けることが罠になるのか。たとえば作家の中には批評やネットの意見を見る人と見ない人がいて、見ない人は「作風に影響を受けたくないから」と言ったり、または単に「気分が悪くなるから」見なかったりするらしい。

 

でも、他人の評価、特に目先の評価に一喜一憂しないことは、そうした作り手側の気分の問題と関係なく重要なことだ。なぜなら他人の評価は時とともにいくらでも変わるから。

 

時を経て支持される人やコンテンツ

有名な話だけど、ファン・ゴッホの絵は生前は全然売れなかった。今では名作とされる作品を貧しい生活の中で描き続けて、37歳で彼は拳銃自殺した。

 

フランツ・カフカは20世紀を代表する作家と見なされているけれど、生前は「変身」など数冊が限られた範囲で出版されただけで、「審判」や「城」と言った小説は40歳で死去した後に刊行された。

 

山下達郎らのシュガー・ベイブ による「Songs」は、名盤中の名盤と言われているけれど、1975年にリリースされたときには全く売れず、発売直後にレコード会社も倒産したらしい。

 

SF映画の古典になっているブレードランナーも、公開当時はヒットしなかった。

〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀 (新潮文庫)

〈映画の見方〉がわかる本 ブレードランナーの未来世紀 (新潮文庫)

 

*余談だけど町山智浩さんのこの本のブレードランナー解説は超名文で、管理人は映画本体よりもその文章の方が好きだ

 

時を経て評価された人やコンテンツは他にもいくらでもある。テレビ番組でも、放送当時は視聴率が低かったけれどソフト化されて人気になっているものとか幾らでもあるだろう。

 

でも、Youtuberみたいな、アクセス数や登録者数が絶対正義の表現の世界って、そういう時を経た再評価みたいなことが起こる余地ってあるのだろうか。

 

評価経済社会のダークサイド

これは、他人の評価が何でも定量化されて可視化されてお金よりも価値を持つ評価経済社会のダークサイドだと思う。

 

強調しておきたいけど、むかしは良かったみたいなことを言いたいわけではない。むかしはそもそも、限られた人にしか情報発信手段も他人の評価を得る手段もなかった。

 

それに、時を経て再評価されるより、生きてる間に評価された方が作家の人は幸せだろう。だいたいゴッホは自殺してるし。カフカも婚約者がいたのに相手の父に貧しさを理由に婚約を破棄され、晩年に別の恋人に出会ったときには既に病により勤務不可の年金生活者だったらしい。めっちゃ不幸だ。生きている内に評価された人の例を挙げればよかったかも。

フィンセント・ファン・ゴッホ - Wikipedia

フランツ・カフカ - Wikipedia

 

とはいえ、勝手な想像だけど、ファン・ゴッホもカフカも、「他人の評価の世界」と「お金の世界」と「芸術的な価値の世界」をそれぞれバラバラに切り離して生きられたと思うのだ。他人に評価されなくても、金にならなくても、俺の芸術の世界には価値がある。そんな、無根拠でわけのわからない、自分だけのパラレルワールドを生きる自由があったのではないだろうか。幸か不幸か、自分とその作品がどれだけアクセスされたかもシェアされたかもフォローされたかも知る手段がなかったから。

 

それに比べて、他人の評価がイコールお金で、イコール自分の価値として、同一平面上で扱われてしまうYoutuberの人たちって、何て過酷な世界で生きているんだろう。炎上でのアクセス増を狙って自分で自分の耳を切る 人とか出てこないか心配になってしまう。

 

面白いことを発信したい!と思ってYoutuberになる方は、あんまり登録者数やアクセス数にオーバーフィットせず、自分が面白いと思うものを続けてほしい。登録者数が5人でも、アクセス数が50でも、100年後のゴッホやカフカはあなたかもしれない。誰が見つけてくれるのか知らないけど。生きているうちは不幸かもしれないけど。

 

以上。一応念押ししておくと、サイゼリヤで大量食べ残しをしたYoutuberの人を擁護したいわけではない。ただ、彼らって「他人の評価へのオーバーフィッティング」に悩まされている現代人の戯画というか、討ち死にする尖兵のようにも見えるのだ。

 

ちなみに、管理人はこの記事のアクセス数や評価が高くても低くても気にしないようにしたい。おあとがよろしいようで。またはよろしくないようで。それが決まるのも評価次第・・