未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

自分を大きく見せるためじゃない自分語り - 「悲しくてかっこいい人」 by イ・ラン

悲しくてかっこいい人

イ・ラン(Lang Lee) - 悲しくてかっこいい人

 

韓国の自由で気高い魂、

シンガーソングライターのイ・ランのエッセイ集。

 

セカンドアルバムの「神様ごっこ」(名作!)を聴いて以来、彼女の表現世界がとても好きで、ミランダ・ジュライと並べた記事を以前に書いたりした↓ 

 

このエッセイ集には、それぞれ2〜3ページ程度の、73編のエッセイが収録されている。

 

自分の生い立ちから、日常の疑問、怒り、芸術の目的まで、テーマは雑多だ。恋愛遍歴を語るエッセイは「この三人を除いた残りの彼氏たちは、それほど好きじゃなかった」という一文で終わったりする。

 

不思議なのだけど、こんなに自分のことばかり語っているのに、イ・ランの文章や音楽からは「自己中心的」「自己陶酔」といった印象を受けない。あるエッセイによれば、アルバム用の文章を見た所属事務所の社長から「お前の話が多すぎる、この世の中心はお前なのか?」とまで言われているにもかかわらず。

 

それはおそらく、彼女の作品が、「他人に愛されたい」という自己愛や「他人に認められたい」という承認欲求を動機に作られていないからだと思う。

 

一般的に、「自分語り」は嫌われると思う。でもたとえば、個人の日記に自分の感情を毎日書いている人を「自分語りばかりしている人」とか「自分大好きな人」とは呼ばないだろう。それは「自分語りをしている人」ではなくて「自分について考えている人」だ。つまり、嫌われるのは、自分を他人によく見せるために、他人に対して、「自分語り」する場合だと思う。

 

イ・ランからは「自分を大きく見せよう」という欲求を感じない。たとえば「マウンティング」という習慣から、一番遠いところにいる人のように思える。本書の帯には「ひとりごとエッセイ」とあって、イ・ランの文章や歌詞の世界は、人に見せない、個人の日記帳に近い。本書の巻末には、手書きのノートがそのままコピーされていたりする。

 

ただし、個人の日記帳を他人が読んでも、普通はつまらない。ありのままの私、ありのままの感情、ありのままの現実は、他人にはどうでもいい代物だ。それを第三者にとっても面白く表現できるのが、才能であり技術なのだと思う。

 

たとえば「今からわたしが人類について抱く感情を説明したいと思います」という書き出しで始まる「にもかかわらず」という一編。人はやがてみな死ぬ、というありのままの現実と、にもかかわらず、短い人生で素敵なものを作る人間への驚き、という両義性を語る。私は両義性フェチなので、ある現実と別の現実を「にもかかわらず」でつないで両義的に語るこの一編がとても好きだ。

 

イ・ラン「悲しくてかっこいい人」は2018年11月に発売された一冊。訳者あとがきで「自由で平等で健全な未来を望むことも、芸術的な才能と言える」というコメントが挙げられている。それが才能ならば、イ・ランは才能の塊だと思う。

 

何の役に立つのか 意味があるのかわからないけど

ある人たちは 楽しかったと 嬉しかったと 涙を流したと

 

多くの人々が私にかける挨拶は

「(あなたのことは)よく聞いていますよ」

 

私に会ったことがなくても 会わなくても

初めて会っても「よく聞いていますよ」

 

よく聞いていますか

どんな時間に どんな瞬間に なぜこの歌を 聞いていますか

 

何でもない質問でしかないこの歌を

(”よくきいていますよ”)

・・ よく聞いていますとも。