未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

2020年ベストマンガ - 「チ。ー地球の運動についてー第1集」by 魚豊

チ。―地球の運動について―(1) (ビッグコミックス)

 

人生がゲームだとして、クソゲーをクリアするのと、よいゲームだがゲームオーバーになるのと、どちらに価値があるのだろうか。

 

15世紀のヨーロッパを舞台に、異端とされていた地動説を証明しようとした人々を描くマンガ「チ。ー地球の運動についてー」が、とんでもなく面白い。まとまった単行本はまだ1巻しか出ていないのだけれど、「連載マンガの第1巻」として、こんなに完璧な作品は無いんじゃないか。構成の素晴らしさを確認したくて、もう何回も読み直してしまった。

  

あらすじとか

1巻のあらすじを簡単に言うと、学業優秀・品行方正で周囲から将来を嘱望されて、「この世はバカばっかり」「世界、チョレ〜」「僕は生きるのが上手い」と思っている神童ラファウが、当時異端とされていた地動説の研究者に出会い、その理論に魅せられていくというもの。

 

異端信仰がバレれば拷問、続ければ火刑という時代に真実を追求する歴史物語。・・ではあるのだけど、「現代のマンガ」として読めるようにかなり工夫されている。ラファウが葛藤するのは「他人から好かれて、評価を集める」だけが善い人生なのか、という問いだ。

 

たとえばガリレオの時代にSNSがあったとしたらどうなっていただろう。地動説を唱える彼のアカウントは大炎上して、自著の発表はクレームを恐れて取り止めになっていたかもしれない。

 

みんなが信じる基準に従って、社会的な評価を得ることだけが人生の価値ならば、たぶん人生はクソゲーだ。たとえ社会的にはゲームオーバーでも、文字通り天地を引っくり返すような美しい真実に殉じるのが人生というゲームなのではないか。当時、学問の頂点と考えられていた神学の道を蹴って、ラファウは天文を専攻することを宣言して次のように語る。

 

「申し訳ないが、この世はバカばっかりだ。

でも気付いたらその先頭に、僕が立ってた。

本当の僕は、"清廉"でも"聡明"でも"謙虚"でも"有力"でもなく、

"横柄"で"傲慢"で"軽率"で"無力"でーー

 

そして今から、地球を動かす。」

 

・・ここ、鳥肌が立ったシーンだ。

 

好奇心は罪だった

何かを知りたいと思い、好奇心を持つ。 これは教育が重視される現代では「良いこと」と考えるのが当たり前かもしれない。

 

けれども、歴史を振り返ると「知らなくてもいいことを知ろうとする」ことは罪だった時代が実は長い。このあたりはイアン・レズリーの「子どもは40000回質問する」という本に詳しく説明されている。*1

 

近代科学が成立する前、神学が絶対視されていた中世ヨーロッパはそうした時代の典型であり、このマンガでも1巻よりさらに後の回で「好奇心は邪欲(つみ)だからだ」というセリフを聖職者が語る。

(Amazonで1巻以降の回も単話発売されているのでガマンできず買ってしまった。)

 

この「信仰」vs「好奇心」という本作のテーマ軸も、デマが飛び交って「自分が信じたい考えや声の大きい人を信じる」べきなのか、「面倒でも科学的に正しい事を確認する」べきなのかが問われる現代に向けたテーマになっていると思うのだ。異端者を処罰する側に対して、次のセリフが向けられる。

 

「敵は手強いですよ。

あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。

ある種の想像力であり好奇心であり

逸脱で他者で外部で・・・

畢竟。

それは知性だ。」

 

人生の「ラスボス」とは 

そしてそして、もうとにかく読んでくれという感じなのだが、1巻の終わりが、天文マンガだけに驚天動地の展開を迎える。

 

絶対にネタバレしてはいけない点なのだが、ギリギリかすっているようなヒントを出すと、ある人物は、「哲学の父」とされている人物が下した結論と、同じ選択をする(これだけで勘づいてしまう方、ごめんなさい・・)。

 

科学に対する価値観の対立が本作の表向きのテーマだとすれば、裏テーマは、「人生観」にかかわる対立だ。それは、キリスト教的な価値観と、キリスト教が生まれる前のギリシャやローマ哲学の価値観の対立である。後者の価値観とは、超乱暴に個人的な解釈をすると「他人にどう思われようが、よく学んで、善く生きろ」だ。

 

作者の魚豊(うおと)の前作である「ひゃくえむ」というマンガも読んでみたのだが、このテーマは一貫しているように思える。「ひゃくえむ」は、100m走の小学生チャンピオンが中高社会人と進むに連れて才能が枯渇して勝てなくなっていく「ゆるやかな右肩下がりの人生」を描いた驚くべきマンガだ。でもそこには絶望だけではなく紛れもない希望がある。

 

ビッグコミックスの魚豊氏の紹介には「ガチ勢を描くことにおいて他の追随を許さない俊英」とある。普通のマンガは敵キャラと戦うけれど、彼のマンガの登場人物がガチで戦うのは、社会の壁であり、時の流れであり、自分自身の運命だ。この、誰も逃げられない「ラスボス」たちに対して、人間の抵抗手段は、人から人に知恵と熱狂を伝染させていくだけ。彼のマンガが描いているのは、「努力・友情・勝利」ではなく、挫折・受難・省察であり、挑戦・再生・自己受容である。つまるところそれは「人生」なんじゃないだろうか。

 

魚豊作「チ。ー地球の運動についてー」は2020年に連載が始まった作品。最初はアホ面白いのに連載が長期化するにつれてつまらなくなった竜頭蛇尾マンガもいっぱい知ってはいるけれど、単話発売で11話まで読んだ限りではとにかくシビれる面白さだ。「寄生獣」「ヒストリエ」の岩明均もほめているようである。

 

今なら1、2話がビッグコミックのページで無料で読める(2020年12月時点)。

チ。―地球の運動について―(1) (ビッグコミックス)

チ。―地球の運動について―(1) (ビッグコミックス)

  • 作者:魚豊
  • 発売日: 2020/12/11
  • メディア: Kindle版
 

*1:

子どもは40000回質問する  あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力

 

ちなみにレズリーは、好奇心が罪だった中世だけでなく、ネット検索が普及した「回答の時代」である現代も、知識と好奇心の価値が毀損される危機にあると語っている