働くのってBitterでSweet - 『仕事の喜びと哀しみ』by チャン・リュジン
韓国の作家チャン・リュジンの短編小説集『仕事の喜びと哀しみ』が好きだ。
以下、一部ネタバレあり。
表題作では、スタートアップ企業に勤務する女性が主人公である。そこでは英語名のファーストネームで互いを呼び合う事が推奨されている。CEOはデービッド、エースのプログラマーはケビン、そして主人公はアンナ。
けれども、そこはカリフォルニアではない。舞台はシリコンバレーではなく板橋(パンギョ)テクノバレーだ。ファーストネームで呼び合っていても「デービッドからご要請のありました・・」「アンドリューがお話しになった・・」と、敬語と気遣いをしなければならない。これがいかにも日本を含む東アジアの文化という感じで、バカバカしいリアリズムに笑ってしまう。
仕事の日常を描く作品が多いこの小説集には、こういう「そこ、切り取るか」と笑ってしまうようなディテールが数多く登場する。社内の高度な人材を公募しようとしているアグレッシブなプロジェクトに新入社員が志願をして、それを全社宛アドレスに送ってしまうとか、大して仲良くない同僚への手書き結婚メッセージのスペースをどう埋めるか苦労するとか、小洒落たオフィスエリアのカフェでアイスアメリカーノを頼もうとしたら値段がホットの倍以上の値段で、店員に「イタリアでは本来コーヒーはホットでしか飲まないんですよ」と諭されたりとか。
ただし、単に半径数メートルの日常を描くだけの小説ではない。訳者あとがきで、韓国で行き詰まった状況が打開されたときの爽快感をサイダーに例える事にならって本書を「サイダーのような」短編集と呼んでいる。
爽快感とは一体何だろう。表題作に、紆余曲折あって給料を全てポイントで受け取る事になった人物が登場して「でも実際、お金がなんだって話じゃない?お金だって結局はこの世界の、私たちが生きていくシステムのポイントってことでしょ」と語る。
登場人物は何らかの組織に所属してそこでのしがらみや社会が強制する無言のルールに制約を受けているけれど、そうした固定観念から自由になる瞬間が描かれていて、それが体がふわっと浮き上がるような爽快感の正体だと思う。夢見ていたキャリアに挫折して年齢を重ねていく女性が、むかし訪れたフィンランドでつかの間交流した老人を思い出す「タンペレ空港」という作品が特に素晴らしい。
抜群に優秀なスーパーマンのような人を除いて(またはそういうスーパーマンのような人にとっても)、仕事というのは理想と現実との妥協点探しの連続であり、苦くて甘い毎日の積み重ねだろう。この小説が描いているのは、キャリアにおける「自己実現」ではなくて「自己受容」であり、社会に自分の意見を通す「成功」の物語ではなく、組織と自分との間に折り合いをつける「適応」の物語だ。
チャン・リュジン『仕事の喜びと哀しみ』は2021年5月に日本語版が発売された一冊。平凡な人を面白く描けるのって非凡な小説家だと思う。