未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

ジュノ・ディアスとMeToo - その3 - ボストン・レビューの声明文の和訳

オスカー・ワオの短く凄まじい人生 (新潮クレスト・ブックス)

前の記事↑からの続き。

 

ピュリッツァー賞作家ジュノ・ディアスのパワハラ・セクハラ疑惑(経緯は前の記事参照)に際して、政治・文化メディアのBoston ReviewがWeb上に発表した声明文を以下に勝手に訳す。

 

簡単にいうと「私たちはジュノ・ディアスが『シロ』だと判断しました」という内容である。ジュノ・ディアスは同誌でエディターを務めており、今後もその契約を維持するというもの。

 

正直、内容に対する支持・不支持は個人的にはどうでもいい。この声明の通りジュノ・ディアスの行動には問題が無いのかもしれないし、表に出ていない問題行動があったのかもしれない。行動に問題はなくても、人格的にはミソジニストのクソ野郎なのかもしれない。Boston Review誌も(文中で否定はしているが)人気作家を手放したくないというビジネス上の判断をしているだけかもしれない。ちなみに今回の決定に抗議して、別のエディターは辞職したらしい。*1

 

この声明がやっているのは、論点を洗い出して、自分たちのスタンスをはっきりさせる。それだけのこと。

 

でも、何か騒動があったときにここまでやらないメディアも多いと思う。だから紹介したい。

 

さて、2018年9月に雑誌「新潮45」が「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」の掲載を理由に休刊宣言をした。これに対して批評家の東浩紀が、「(新潮45の編集部と新潮社の経営陣は)ネットに振り回され、出版の強みを見失っている」として「出版の強みは本来は、ネットではむずかしい『時間をかけた熟議』の提供にあったはずである」と指摘している。

 

上の文章を読んだとき、「時間をかけた熟議」っていったい何?どこにあるの?誰がそれを必要としているの?とかいろいろ疑問にも思ったけれど、たとえば以下の声明文はそのサンプルになるかもしれない。事件の性質や状況や立場が全然違うのは理解した上で、「新潮45」休刊のお知らせ文もリンクしておくので、メッセージの出し方の例題として読み比べてみてもらいたい。

 

ではボストン・レビュー誌の声明文の和訳をどうぞ。興味を持ったら原文も参照いただきたい。

 

エディター・ノート

デボラ・チャスマンとジョシュア・コーエンからの手紙

 

2003年以来、ジュノ・ディアスはボストン・レビューのフィクション部門のエディターを担当しています。多くの人と同じように、ニューヨーカー誌に彼が先日発表したエッセイに私たちは深く心を動かされました。それは幼少期に犠牲となった自らのレイプ体験を語るものです。また、そのエッセイの中で、自らの「嘘と選択」により他人を傷付けたことを彼が認めていることにも心打たれました。同時に、やはり多くの人と同じように、彼によっていかに傷付けられたかを名乗り出ようとする女性たちが先日出した報告に、我々は動揺させられました。彼女たちの報告を注意深く読み、その告発を真剣に捉え、どう反応すべきを真剣に考えました。

 

我々に分かったことに基づいて、ジュノとのエディターとしての関係を継続することを私たちは決めました。いくつかの説明をしたいと思います。

 

はじめに、15年にわたるフィクション部門のエディターとしての在職期間において、ジュノの振る舞いについて告発があったことはありません。我々のスタッフからも、他の作家たちからも。

 

もし、私たちが単なる雇用主であるならば、議論はここで終わりかもしれません。けれど、ジェンダーや人種に関する問題は、我々のミッションの中心にあります。ジュノは社会的に重要な役割にあり、彼を単なるエディターとして関心を狭めることは私たちにはできません。

 

そして、第2に、個別のアクション(訳注:ジュノ・ディアスへの告発のこと)のいずれも、エディターとしての関係を終わらせることを我々に迫るものではないと考えています。はっきりさせておくと、彼らが述べる不適切な行為を我々が許容するわけではありません。そのかわり、我々は自問しました。彼らが報告した振る舞いが、ジュノの役割と我々のミッションを考慮したときに、エディターとしての関係を終わらせるべき性質のものであるかと。そうは思いません。公にされた報告のなかで述べられている不適切な行為は、#MeToo運動として活発に議論されているような深刻さを持つものには該当しません。

 

第3に、ある人たちが示したように、告発のポイントを権力の濫用というより大きな傾向として捉えるべきなのかを私たちは検討しました。その権力とは、成功した作家、エディター、知識人としてジュノが持つ、スターとしての権力です。公にされた告発を注意深く見直した結果、我々は濫用があったとは考えません。彼らが明らかにした出来事は、公の場の議論で攻撃を受けたという複数のエピソードを含めて、長期間にわたって散発的に発生しています。我々の知る限り、権力の濫用傾向を示すような、性質、再発性、深刻さを示すものではありません。

 

公にされた報告を見直すことに加えて、信頼できる独立した調査が存在しないことから、さらなる精査を行うことが重要であると私たちは考えました。特に、文学の世界における有色人種の女性作家たちに対して。私たちの目的は、告発の正確さを調査することではありませんでした。報告された問題が、どのぐらい浸透しているのかを評価することでした。

 

我々がコンタクトした人々から聞いたジュノについての話は、エディターである彼との経験と一致するものです。人々へのドアを開く支援をしてくれたエディターでありメンターであったという話を聞きました。フィクション部門のエディターとしての彼の在職期間において、我々は100以上の新進作家の作品を出版し、その3分の2以上は女性で、その多くは有色人種や同性愛者でした。彼の努力によって、私たちはすばらしい作家たちを輩出し、民主主義に対する我々のミッションと強く結びついた文学作品や政治エッセイを出版してきました。

 

ここではっきりさせておきたいのは、編集に対する偉大な貢献があれば権力の濫用も相殺されるといった、何らかの費用対効果分析の観点でこうした見解を示したいわけではないということです。そうではなく、上述した通り、そうした権力濫用は見つからなかったのです。

 

#MeToo運動の目的は、従来の理解の裏にある権力の濫用を明らかにすることだと認識しています。私たちは、これらの問題についての議論を歓迎します。たとえ、直面する問題について我々がこうした決定を発表していても。

 

我々の決定に同意しない人がいることも分かっています。ボストン・レビューに関与している人も、全員がこの手紙に書かれたこと全てに賛成しているわけではありません。そうであるべきでしょう。これは複雑な問題です。ジェンダーの平等に対する我々のコミットメントを共有し、出版業界のバイアス、とりわけ有色人種の女性を除外しようとするバイアスと闘っている、そんな合理的な人々が、私たちとは違う結論に達するかもしれません。我々の義務は、一連の問題に思慮深い考えを提供し、注意深く耳を傾け、主張の本質を検討し、異なる考えの重みを熟考し、自分たちが陥りやすい傾向や潜在的なバイアスを理解して、我々にできる最良のジャッジメントをすることです。この義務を真摯に受け止め、適切に義務を果たしたと願っています。

 

参考