未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

コミュニケーションに悩む全ての人にオススメの作家 - On the Move: A Life by Oliver Sacks

On the Move: A Life

On the Move: A Life
作者: Oliver Sacks
発売日: 2015/04/28

 

年末になるとメディア上に「今年亡くなった人々」という記事が出たりする。神経科医で作家のオリヴァー・サックスも2015年に亡くなったうちの一人だ。本書"On the Move: A Life"は、8月にがんのため82歳で亡くなった彼が4月に出版した自伝である。

目次

 

ストーリーテラーとして

映画「レナードの朝」の原作者として知られる彼は、自分が接してきた神経障害患者についてのノンフィクションを多く残している。もちろん患者に許可を得た上で、名前を変えて書いている。脳と精神(ブレインとマインド)、 そして機構と生命(メカニズムとライフ)の関係が彼の一貫したテーマであるが、科学的な考察よりも患者個人との交流の記録に重点を置いた著作がほとんどだ。この自伝の中で「良くも悪くも自分はストーリーテラーだ」と彼は語っている。

 

サヴァン症候群など、神経障害を持った人間の一部が記憶力や芸術活動の面で特異な能力を発揮することは今ではよく知られていると思う。けれど、オリヴァー・サックスが70年代や80年代に彼らについての著作を発表した頃は現在のような理解はなかった。例えば「妻を帽子とまちがえた男」という'85年発売のベストセラーには、「通常世間では、自閉症は、イマジネーションや遊び心や芸術とは無縁の存在だと考えられているのだ」との記載がある。本自伝の中でも、彼がオックスフォードの医学生だった50年代には行動主義(behaviorism)が主流で、刺激とそれに対する反応でしか患者を見ていなかったと語られている。治療対象でしかなかった神経障害患者の人間性や尊厳に光をあてた先駆者が彼だったのかもしれない。

 

しかし一方で、彼の著作には神経障害患者を過度に美化してしまうという副作用がある。上述の「妻を帽子とまちがえた男」では、自閉症の芸術家たちを紹介する章に「純真」というタイトルがあてられている。知的障害患者を「美しく正直」と画一化してしまうナイーヴさは、ネットなどでたまに拡散される「実は捏造でした美談」にハマってしまう我々の弱いメンタリティに通じるものなのかもしれない。

 

また、現在の脳科学の進歩スピードを考えると、彼の著作は今後どんどん陳腐化していく可能性がある。'73年発表の原作を映画化した「レナードの朝」を見ると、現在は臨床現場に普及しているfMRIなどが登場するシーンは全くなく、外から見える反応だけを頼りに実験段階の新薬がばんばん患者に投与されてたりする。さらに言えば、新しい研究や発見とともに、名著と呼べるような脳科学の本もどんどん出てきている。例えば、オリヴァー・サックスが序文を寄せているV.S.ラマチャンドラン「脳のなかの幽霊」や、今年発売されたマルチェロ・マッスィミー二「意識はいつ生まれるのか」などを読んで得られる知的興奮(あまり使いたくない言葉だけど・・)は、オリヴァー・サックスの作品を読んで得られるそれを上回ると思う。

 

火星の人類学者

けれど、 それでも彼の作品には他の神経科医や研究者の本では味わえない魅力がある。神経障害患者の内面世界に分け入って行く彼のストーリーは旅行記や紀行文学のようでもあるし、患者に寄り添って困難を克服していく経緯はスポーツモノのノンフィクションを読んでいるような気分にもさせる。

 

私が特に好きなのは、「火星の人類学者」という作品だ。自閉症でありながら動物行動学の博士号を取得し、大学教授兼家畜飼育場設計士として活躍するテンプル・グランディンという女性を描いた短編エッセイである。*1

 

情緒的基盤を持たないテンプルは、他者の心を理解し共感するという「ふつうの」心の交流ができない。人の心の状態を推定し、それに基づいて行動を解釈、予測するということができない。同じ症状を持つ別の幼女は、友だちが泣いていることを教師に報告する際に「XXさんが変な音を立てています」と言ったそうだ。

 

「ふつうはこうする」「ふつうはこう思う」それが理解できないテンプルは、かわりに世界をパターン認識で把握しようとする。人間はどういう状況でどんな風に行動するのか、その膨大なデータのライブラリーを自分の中に蓄積して、情緒ではなく論理だけで人間の行動を予測できるようにする。まるで異星に住んでそこの生物を調査して理解するようなものなので、彼女は自分が「火星の人類学者のような気がする」と語る。

 

はじめて同作を読んだとき、テンプルに強く感情移入した。彼女が人間を理解しようとするために取る思考と行動は、自閉症患者だけに当てはまるものではないと思ったからだ。

 

人の心は外からは見えない。家族でも恋人でも上司でも部下でも異教徒でも誰でもいいが、誰かの気持ちを理解したいと思ってもそれができないことは幾らでもある。誰かの心が理解できなくて、考えることと行動でそれを埋め合わせようとしている人は、彼女には遠く及ばないにしても、火星の人類学者なのではないだろうか。

 

そして、オリヴァー・サックス自身が、自分も火星の人類学者であるように感じてきたと自伝の中で語っている。さまざまな症例に接して患者の内面を理解しようとしてきた彼の著作は、コミュニケーションに悩む全ての人にオススメしたい。

 

My Own Life

2015年の2月、彼はニューヨークタイムズ紙に"My Own Life"というエッセイを寄稿した。目にできたメラノーマが肝臓まで転移し、自分のガンが末期状態にあると明らかにする内容だった。82歳にして自分の死をはっきり意識した心境を彼は次のように語っている。

My Own Life - Oliver Sacks on Learning He Has Terminal Cancer

(以下、抜粋)

私は、焦点が急に定まり、視界がはっきりしたと感じている。本質的でないことに使う時間はもうない。自分、自分の仕事、そして友人たちに集中しなければならない。「ニュースアワー」を毎晩見ることはもはやすべきでない。政治に注意を向けることも地球温暖化について議論することもしないだろう。

 

関心がなくなったわけではない、手を離すだけだ("This is not indifference but detachment")。私は今でも中東情勢、地球温暖化、格差の拡大について深い関心を抱いている。しかし、これらはもはや私が取り組むことではなく、未来に属することだ。才能ある若い人に会うと私は嬉しくなる。たとえそれが私にがんの転移の診断を下した人であってもだ。

 

この10年かそこらで、同時代の人々の死を意識することが増えてきた。私の世代は去りつつある。それぞれの死は、自分の身の一部を引き裂かれるような思いを私に感じさせる。私たちがいなくなれば、似たような人々はもういなくなるだろう。けれども、誰もが誰とも同じではないのだ。人が死ぬとき、他人に入れ替えることはできない。彼らは埋められない穴を残す。なぜならそれは遺伝的な宿命であり神経系が持つ宿命だからだ。全ての人は固有の人間になる定めにあり、自分の道を見つけ、自分の人生を生き、自分の死を全うする("for it is the fate — the genetic and neural fate — of every human being to be a unique individual, to find his own path, to live his own life, to die his own death.")。 

 

※Judy Collinsによる"In My Life"。2015年のバージョンと、約50年前の1966年のバージョン。

 

オリヴァー・サックスは生前に14の作品を発表した。70年近く日記を書き続けて、プールサイドにもメモを持ち込むほど(泳いでいると良いアイデアが浮かんでくるらしい)文章を書くことに情熱を持っていた彼のエッセイは、死後も刊行予定があるそうだ。自伝"On the Move: A Life"の日本語版発売予定は不明。 →日本語版も出たようです

 

ちなみに、この本を読んではじめて知ったのだが彼は同性愛者で、それが原因での母親との確執や恋人との思い出などが自伝の中で語られている。完全に私見で仮説で推測だけど、彼の著作に見られる患者たちへの優しい眼差しと、彼が同性愛者であることとは無関係ではないと思う、なぜなら・・・という話をまた別エントリで書くかもしれない。→書きました

 

彼の作品に興味を持った方はぜひ、「火星の人類学者」か、ハヤカワから今年新版が出た「レナードの朝」あたりをまず読んでいただきたい。

火星の人類学者──脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

火星の人類学者──脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

レナードの朝〔新版〕 (ハヤカワ文庫NF)

レナードの朝〔新版〕 (ハヤカワ文庫NF)

 

 

 

*1:テンプル・グランディンは2010年にTEDでスピーチも行なっている