未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

【番外】Pitchforkアルバムレビュー翻訳:Miguel "Wildheart"

Wildheart

Miguel "Wildheart"

発売日: 2015/06/30

 

このブログは未翻訳の本を日本語版が発売される前にかいつまんでサクっと紹介するという趣旨で始めたのですが、今回は番外エントリで、Web記事の翻訳です。

 

音楽好きの方はご存知かもしれませんが、PitchforkというUSのWebメディアがあります。インディ系のロックや電子音楽やブラックミュージックなどを主に紹介するメディアです。以下はそこに掲載されているレビュー記事の翻訳になります。

レビューされている音楽は、LA出身R&BアーティストのMiguel(ミゲル)が2015年6月に発表したWildheartというアルバムです。

ソウルミュージックラバーズオンリー(ソウルが好きな人以外おことわり)って感じの、音楽好き向け、かつ、オトナ向けの記事ですが、レビューの切り口と言語体系が面白いと思ったので訳してみました。スラングやダブルミーニングが多い世界なので誤訳などあるかもしれません。原文がないとニュアンスが伝わらなそうに感じた箇所は原文をカッコ書きで併記しています。

長いレビューなので要約すると、「近年のR&Bは男らしさを一方通行で誇示するようなものが主流だが、Miguelの作品はパートナーとの間に人間らしさを見つける音楽であり、それはR&Bを次の時代へと導く」という内容です。ではどうぞ。

 

元記事URL:http://pitchfork.com/reviews/albums/20728-wildheart/

ライター:Anupa Mistry

おそらく、メインストリーム音楽において大人たちの欲望が具現化した痕跡なのだろう。現代のR&Bは、典型的な男らしさを売りにしている。それは汗ばんだ腹筋やダーティーな会話であり、Usherなどの色男やJodeciなどのワルい男が押し出しているものだ。Princeが見せた華麗さは、このジャンルの長い歴史における最大の例外であり続けている。彼がパープル・レインを発表して以来、追随者はただひとり点在しているのみで、それは2003年のAndre3000だ。Rap-&-Bのマニフェスト作であるThe Love Belowにおいて、ヒップホップ的な怒れる男らしさに彼は挑戦していたのだ。煙が立ちのぼるピンクの銃(smoking pink gun)の助けを借りて。表面的で皮相な男らしさに従うことへの葛藤が、D'angeloをVoodoo以降へと解き放つのに寄与した、と考えている人もいるかもしれない。

 

現在のR&B界のランドスケープは、痛々しいほど男性優位なものだ。JeremihからTrey Songz、Ty Dolla $ignやPARTYNEXTDOORにいたるまで、男たちはセックスと愛について歌っている。しかし、遊び人であろう彼らはみな、男の悦楽の優越にフォーカスし、ぎゅうぎゅうに詰まったティッシュの山にだけ自分の性的な経験を結び付けている。身もだえするような壮麗なソウルシンガーのMiguelによる、3枚目のフルアルバムであるWildheartにおいても、似たような点はある。しかし、彼は性に取りつかれるのではなく性を肯定している(sex-positive instead of sex-obsessed)。これは重大な違いだ。R&Bというジャンルに定着してしまった物語を、物憂げかつ緻密に乗り越えているのだ。一方的に求めるのではなく、喜びとパートナーシップにフォーカスすることによって。もし、Frank Oceanが、若きソウルをコンシャスに拡張した、色鮮やかなMarvin Gayeなのだとしたら、Miguelは信頼すべきAl Greenにあたる。このアルバムの最初の歌詞―「自分を安直に売るな、直観を信じろ...君はプランを知っていて、社会の憶測をわかっている("Don't ever sell yourself short... Trust your intuition... You know the plan, conjectures of society,")」―が証明しているのは、ラジオで流れる典型的なR&Bの作り手から、ハイ・コンセプトかつジャンルをつなぐポップミュージックの作り手へとMiguelが成長したということだ。

 

オルタナティブR&B("alt-R&B")という近年の奇妙な世界において、Miguelはユニークな位置を占めてきた。色あせたプリセットの音色やドラムマシーンを使用し、ドラッグ中毒であることを誇示/ボーストするような(drugged-out boasting)連中たちのなかにあって、彼はギターを携えた外れ者なのだ。時代に逆行して官能を見せびらかすGinuwineや、自己嫌悪のナルシストであるthe Weekndよりも、特異な存在と言える。シャンパン混じりのスモーキネスがまとわりつく"All I Want Is You”、シンセのアルペジオが熱を帯びていた”Adorn”、そしてファズが効いた”Gravity”といった、かつてリリースした曲たちは、健やかで希望に満ちていて、音楽的にはサイケデリックなものだった("Do You…”という曲でドラッグについて歌っていた時でさえ、彼にとってそれは愛のメタファーだった)。過去5年間に習得したジャンルを横断する技術を、MiguelはWildheartにおいて全て投入している。しかし、過去の2枚のLPや5作のミックステープで見られたトラック主体の実験と異なり、本作ではアルバム全体に渡りヘヴィーなファンクを引き出している。

 

Miguelは、Prince、Freddie Mercury、そしてJames Brownが自分にインスピレーションを与えたと挙げており、Wildheart においてもそのアイコン達と向き合っている。輝くようなギターの旋律と空高く抜けるようなボーカルを携えてこのアルバムは飛翔し、カリフォルニアや彼のホームタウンであるLAが持つ神話的な可能性を映しだす。前2作のAll I Want Is YouやKaleidoscope Dreamと異なり、Wildheartはほぼ全てセルフプロデュースで制作されている。手助けをしたのは、”Goingtohell”でカリフォルニアソウル風のリフを聞かせるCashmere CatやBenny Blancoなどだ。つまり、MiguelはMiguelのために曲を書いており、頭を冴えさせる良質なコーヒーのような自分の声が、”A Beautiful Exit”のクランチーなベースとギターや、蒸せ返るような色気の”FLESH”の上で、滑らかに飛び回れることをわかっている。

 

”The Valley”や”Destinado a Morir”といった曲で彼がデジタルな音楽をやろうとする時、デコボコと横たわるシンセ音や引きのばされた轟音は、彼が吐き出す露骨なリリックと、熱くベッドをともにする。前者の曲において谷(valley)の名を借りて言及されるのはカリフォルニアのポルノ産業であり、彼は"lips, tits, clit, sit.”と、まるでR指定のわらべ唄のように歌う。それは、優しく迎える朝を歌ったファーストシングルの”Coffee”へと続く血塗られた序曲である。彼のソングライティングは、前作のKaleidoscope Dreamに収められた”Pussy Is Mine”よりもさらに猥雑だ。これら一連の曲は、性的な興奮が見せかけであるかもしれないと示している。Miguelは、触れるのが難しいそれらのスポットがどこにあるかを知っており、朝になればコーヒーを持ってきてくれるのだろう。

 

あからさまなエロチシズムに耳を傾けるのもWildheartの聴き方のひとつだが、彼がどれだけシリアスに作品を構築しているかを見過ごすことはできない。Miguelが#surfbort(訳注:BeyonceがDrunk in loveという曲で"surfboard""surfbort"と発音していることを茶化したTwitter上のジョーク。らしい)を乗りこなす”Waves”は、ビビッドな隠喩で構成された曲かもしれないが、シルクのようなハーモニーの積み重ねは間違いなくうっとりとさせるものだ。おそらくアルバムの中で最もまばゆい瞬間だろう。ソウルミュージックのもう一人の破壊者であり同じカリフォルニアの夢見る男であるLenny Kravitzは、”Face the Sun”という曲の中で、色情と豊穣を閉じ込めた繭(airless cocoon of lust and lush)のようなギターを生み出している。"What's Normal Anyway”は繊細なギターの波と堅いビートがある曲で、スカートを追いかけ回してきたMiguelにしっかりしたバックストーリーの足場をもたらしている(「黒人の子どもとしては良い子すぎて、メキシコ人の子どもとしては黒すぎる、普通って一体なんなんだ」"Too proper for the black kids, too black for the Mexicans, what's normal anyway.”。そして、大げさな言葉に転化してしまうことなく、静かな時間は爆発する。穏やかなドラムループを持ったSmashing Pumpkinsの”1979”を、簡単にコード進行を変えて、カリフォルニアの太陽に打ちひしがれた切ない物語にしてみることを想像してほしい。それが”Leaves”という曲だ。

 

Wildheartにおいて、女たらしの自分が持つバックストーリーを複雑に織り込む事にMiguelは成功している。他の連中はほとんどできないようなやり方で。"What's Normal Anyway”のような曲は、人生と愛の双方で疎外を感じた経験を語っている。Miguelにとって、人間性とはパートナーとの間、そして、シーツの間に見つかるものなのだ(For Miguel, humanity is found between partners and between the sheets.)。そして、Wildheartの成功は、現代R&Bにおける時代の変化を示すシグナルかもしれない。つまり、ミニマリズムや不寛容な女性軽視や気だるいシンセ音から、ようやく我々は前に進めるのだ。今年の夏に復帰するとされているFrank Oceanや、Leon Bridgesとともに、Miguelは次の時代のソウルを導く。そこでは、セックスとは男らしさを権威づけるものではなく、喜びや想いを共有するためのものである(—toward the next era of soul, one where sex is not an arbiter of masculinity but something that's simpatico with fun and feelings.)

 

以下、補足とコメントです。

 

Miguelことミゲル・ジョンテル・ピメンテルは、メキシコ系の父とアフリカ系の母を持つアーティストで、サードアルバムの本作は全米チャートで初登場2位を記録しています。元記事のPitchforkでもBEST NEW MUSICという枠に選出され高評価です。

上のレビューにはタイトルがついていないのですが、もし勝手につけるとしたら、"From masculinity to humanity.”(男らしさから人間らしさへ)と名付けたいです。

個人的な話になりますが、自分は中学や高校時代、ロックやポップスの歌詞に比べてR&Bの歌詞ってつまらないなあとか思っていました。ときに社会や政治の問題を扱うロックなどに比べて、恋人との関係ばかりを歌うR&Bは価値が低いとか思っていました(もちろんR&Bにも社会や政治を歌ったものは幾らでもあるのですが当時はあまり知りませんでした)。

ですが、年齢を重ねるにつれて、社会や政治を歌うロックの方が嘘くさくて、恋人との関係を歌うR&Bとかの方がよっぽどhumaneで信頼すべきものなのじゃないかと考えるようになってきました。最近復刻された、田中康夫によるAORガイドエッセイ本である「たまらなく、アーベイン」を読んで、ますますそう感じるようになりました。*1

 "War is over"と歌うのと同じくらい、"I want you"だの"Between the sheets"だのと歌うのは反戦的なのかも。恋人とのロマンチックな一夜のシーン「だけ」を4分54秒間ずーっと描いたMiguelの"Coffee"のPVを観ながら、そんな事を思いました。自己を誇示するのではなく相手を敬愛する、というMiguelのとてもシンプルなテーマは、新しい時代のR&Bであるとともに、60-70年代のクラシックなR&Bに回帰するものなのかもしれません。

"Wordplay, turns into gun play
言葉のじゃれ合いが銃の撃ち合いに変わり

And gun play turns into pillow talk

撃ち合いがピロウトークに変わり

And pillow talk turns into sweet dreams

ピロウトークが甘い夢に変わり

Sweet dreams turn into coffee in the morning

甘い夢が朝のコーヒーへと変わる"
- "Coffee"

(注)"gun play"は、男性が自身の銃を使って女性とする行為の隠喩らしいです

 

*1:以下、田中康夫「たまらなく、アーベイン」まえがきより引用

「<この楽曲にはかくなる主張が込められている>といった、多くのライナーノーツでお目に掛かる記述に、少なからず違和感を抱き続けていた」
「あの頃AORって、上の世代からは軟弱とか中身がないってバカにされたもんだけど、案外そうでもないしょ。ちゃんと愛が感じられたし。俺はこう生きるみたいなメッセージを叫ぶ音楽の方が、よっぽど同じ鋳型に人を閉じ込めてしまう気がするよ。」

ちなみに、同書をアップルミュージックの登場などと絡めて書いたamazonレビューを投稿しました。こちらもどうぞご覧ください。

Amazon.co.jp: たまらなく、アーベインの @kaseinojiさんのレビュー