未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

ごらん世界は美しい。それはいいけど、あなたはどこ?

Beautiful World, Where Are You: from the internationally bestselling author of Normal People

Beautiful World, Where Are You by Sally Rooney

 

サリー・ルーニーの新作小説"Beautiful World, Where Are You"、すごく良いタイトルだと思った。

 

ルーニーは1991年アイルランド生まれの女性作家で、これまでに2作の小説を発表。若者の恋愛を描いて、いわゆる「時代の声」(voice of her generation)と呼ばれる作家だ。日本で言うとかつての綿矢りさとか朝井リョウとかそういう存在にあたる作家かもしれない(この辺の「日本で言うと誰々」の感覚にはあまり自信ないけれど)。デビュー作「カンバセーション・ウィズ・フレンズ」は邦訳も最近出た。

 

で、2021年の9月に発売された彼女の3作目の小説が"Beautiful World, Where Are You"(美しい世界、あなたはどこ?)である。

 

先に言っておくと、まだ読んでいない。でも、もう一度だけどすごく良いタイトルだと思うので、タイトルだけ粒立てて解説してみよう。

 

Beautiful World(美しい世界)の後に、Where are you(どこにいるの)という、一見全く脈絡のない言葉を並べている。このように「A」の後に全く異なる言葉「B」を並べて、AやBがもともと持っている意味を異化するという表現はよくある。レトリック手法として何か決まった呼び方があるのかもしれない。

 

あまりモダンな例が思いつかないのだけど、例えば寺山修司の有名な「マッチ擦るつかのま海に霧深し 身捨つるほどの祖国はありや」という句がある。上の句と下の句が全く別々の言葉だ。でも、上の句があるからこそ、下の句の「祖国」という言葉が、政治ニュースで使われるときとは全く違う儚さや不安の影を帯びる(と、個人的に解釈しています)。また、これも古い例だけれど、井上陽水の「傘がない」は「都会では自殺する若者が増えている けれども問題は今日の雨、傘がない」と歌う。若者の自殺という社会の問題よりも、今日の雨の方が問題だと突き放す事で、社会との距離感や断絶を表現している(と、個人的に解釈しています)。


で、サリー・ルーニーのこのタイトルにも同じような異化効果を感じる。"Beautiful World"というのは本来ポジティブな言葉のはず。だけど、そこに"Where are you"という言葉が続くと、急に皮肉のように聞こえている。


個人的な解釈だけど、これって「世界が美しい」のは、お前がそう感じられるポジションをキープできているからだけなんじゃないの?と皮肉っているのではないだろうか。

 

何を言いたいか分かりにくいと思うのでちょっと補助線を引く。自分の寄稿連載で、オマル・エル=アッカドの「What Strange Paradise」という小説を先日紹介した。難⺠危機をめぐる無関心や分断をテーマにした小説である。

 

同作についてのインタビューで、著者のエル=アッカドは「希望はドラッグになり得る」と語っている。


難⺠問題の直接的な当事者でない人々は、ショッキングなニュースがあってもそれをすぐに忘れる事が許されている。エル・アッカドはこれを「特権」だと見なしている。そして、特権を持った立場から語られる「問題あるみたいだけれどすべてはうまくいくだろう」という希望は、問題を覆い隠すドラッグのようなものになり得ると語っている。

 

で、サリー・ルーニーにおける「美しい世界」という表現も、この「希望」と同じドラッグみたいなものではないかと思うのだ。


世界は美しい。そう言っているお前はどこにいる誰なんだ?お前を取り巻く所得など社会環境のパラメータがそう言わせているだけなんじゃないの?・・・そんな絶妙な感覚をこのタイトルから感じる。


同作についてのレビューを読むと、小説内ではキリスト教でイエスが要求する「無償の愛」(uninterested love)について語られる部分があるらしい。手塚治虫の「ブッダ」の帯には「ごらん世界は美しい」と書いてある。キリスト教や仏教が理想とするのは、無条件で世界の美しさを肯定する境地なのかもしれない。でも、都合の良い情報だけを集めて、それぞれがフィルターバブルの中で「世界は美しい」と壁打ちのように言い放つだけならば、それはドラッグと変わらないのではないか?ごらん世界は美しい。それはいいけど、あなたはどこ?Beautiful world, where are you?

 

・・・なんて事を、タイトルだけ読んで想像した。サリー・ルーニー著"Beautiful world, where are you?"は2021年9月に発売された一冊。まだ読んでいないので、上に書いた事は本書の内容と全く関係無いことを再度お断りしておく。

 

 

すぐに忘れてよいという特権 - What Strange Paradise

What Strange Paradise: A novel (English Edition)

 

新潮社「Foresight」での連載「未翻訳本から読む世界」、第2回が更新されました。

 

有料記事なので、こっちのブログにはteaser・予告編・オマケ話みたいなものを書こうと思います。

 

今回取り上げたのは、オマル・エル=アッカドの小説第2作"What Strange Paradise"です。ギリシャの島に流れ着いたシリア出身の少年が主人公です。

 

難民危機をテーマにした本作についてのインタビューで、エル=アッカドは「すぐに忘れてよいという特権(the privilege of instantaneous forgetting)」に抗うために自分は書いている、と語っています。

 

例えばアフガニスタンから逃れようとする人々のニュースを見た後、私たちはそれをすぐに忘れる事が許されています。エル=アッカドはそれを一種の「特権的立場」だと呼びます。

 

日々フィードされ更新されるニュースの過剰摂取は、私たちをキャパオーバーの「無関心」状態にします。または逆に、何にでも脊髄反射で過剰反応してしまう「過関心」の状態をもたらします。そこで欠落するのは、当事者としての感情です。ジャーナリストでもあるエル=アッカドは、無関心を非難するのではなく、小説を使って「他人事ではない、当事者の感覚」を読者に体験させようとしているのだと思います。これは彼のデビュー作「アメリカン・ウォー」にも共通するテーマです。

 

 

新しい連載が始まりました

 

www.fsight.jp

 

お知らせです。

新潮社さんの国際政治経済情報webメディア「Foresight(フォーサイト)」で、新しく連載を始めました。

 

毎月、世界について新しい視点を与えてくれる本を紹介して考察を加える予定です。以下、リードを引用します。

 

書籍という「閉じた系」の知の集積に、言語の壁を越えながら、webからアクセスルートを作り出す――未翻訳の海外書籍をジャンル横断的に読み込み、緻密な論考を加えたブログで注目を集める植田かもめ氏が、選りすぐりの1冊を紹介する〈未翻訳本から読む世界〉。ノーベル経済学賞を受賞した異色の心理学者の新著が捉える「意思決定におけるノイズ」の働きとは?

 

初回は「ファスト・アンド・スロー」で知られるカーネマンがキャス・サンスティーンらと共著した「ノイズ」を採り上げました。企業の採用面接とか人事評価って公平性がほとんどなくて実は時間のムダなんじゃないの・・という、みんな薄々気づいているけれど知らないフリをしていることが書いてある本です。

 

会員制の有料メディアですがこの初回記事は無料ですのでぜひ読んでみてください!

裁判も企業の人材採用も「気まぐれ」なのか? 意思決定の「ノイズ」と人間の未来:植田かもめ 

【最近のマンガ話#3】和山やま「夢中さ、きみに」、または、干渉しない多様性という存在しないユートピア

夢中さ、きみに。 (ビームコミックス)

 

前回と、前々回に続いて、最近読んだマンガの話。

 

和山やまの「夢中さ、きみに。」に男子校を舞台にした連作短編が収められていて、その中に「林くん」というキャラクターが出てくる。

 

彼は周りから見て「よくわからない男」だ。学校の階段の数を全て数えていて、「なんでそんな無駄なことしてんの」と聞かれる。「無駄なことするのってなんかいいでしょ」「無駄なことができるほど自由な時間があるっていうのがなんか、心地いいんだよ」と林くんは答える。「勉強しろよ」とツッコミが入る。

 

林くんは他にも、パンダの着ぐるみを着て歩いて職質されたり、街中の看板から一文字ずつ拾った写真をつなげて単語にしてツイッターに投稿したり、美術部員のキャンバスを台に使って干し芋を作ろうとしたりしている。

 

林くんは周囲に同調しないが、周囲も特に林くんに同調を求めない、というかそこまで関わり合いになろうとしない。現在連載中の「女の園の星」も含めて、和山やまの作品には人と人との間に乾いた距離感がある。

 

多くの人が感じる事だろうけれど、この独特の距離感は、写実的な絵柄も含めて佐々木倫子の「動物のお医者さん」を思わせる。「動物も人間もみんなそれぞれ好き勝手やって生きている」という感覚であるを。が、少し検索した限りだと本人は佐々木倫子を読んだ事なかったらしい。だとすると余計すごい。

 

さてさて、「多様性」や「包摂性(inclusion)」の重要さが政治の場でも職場でも語られるようになって久しいけれど、その根底には、「自分と異なる相手を理解しよう」という積極的なメッセージがあると思う。

 

それはとても大事なことなのだけど、和山やまとか佐々木倫子のマンガを見てると、実はもっとゆるい「理解できないけれど過度に干渉もしない」多様性のあり方があるんじゃないかという気がしてくる。

 

おそらくこれは、現実には大規模に存在できないユートピアだ。ヘイトとか差別とか排除とか、人間の強い負の感情を無いことにしているから。和山やまも佐々木倫子も、ギャグマンガという作品世界の物理法則もあるためか、人間のシビアでドロドロした感情は描かない。BLや恋愛を題材にする回もあるけれど、「ガチ」な恋愛は出てこない。

 

でも、こういう「干渉しないユートピア」には憧れてしまう。「多様性が大事だ」というメッセージを出さなくても、多様性があるのが当たり前、となっている世界である。

 

文化人類学者の小川さやかの著作が好きなのだけど、彼女の著作を読んでいると、少し近い印象を覚える。香港で働くタンザニア人のコミュニティを取材した「チョンキンマンションのボスは知っている」によると、インフォーマルな経済で生きる彼らは政府も法もモラルも信用しておらず、だましだまされて生きているが、それでも世界中と交易ネットワークを築いて、コミュニティは回っている。

 

同書によると、彼らはめったに「俺は◯◯が好きだ」と相手への好意を表明しない。そのかわり、すぐに「◯◯は俺のことが好きに違いない」と語るらしい。この戦略、分かるだろうか?「◯◯が好きだ」と自分からベットするとリスクが高いので、かわりに「◯◯は俺のことが好きだよな?」と投げかけて、イエスと答えてくれた相手とだけ付き合うという戦略なのだ。ヒドい戦略だけど合理的ではあって、なんだか「動物のお医者さん」に出てくる傍若無人な漆原教授を思い出した。

 

 

 

 

 

【最近のマンガ話#2】池辺葵「ブランチライン」、または、社会とは値札である

ブランチライン(1)【電子限定特典付】 (FEEL COMICS swing)

 

前回の記事に続いて、最近読んだマンガの話。

 

池辺葵「ブランチライン」の1巻を読んだ。女性ばかり4姉妹の家族を描いた物語でとても素晴らしいのだけど、この記事ではまた本筋とは関係ないところを紹介したい。

 

主人公姉妹のひとりがはたらく職場に後輩の若い男性がいる。彼が自分の過去を回想するシーンで、両親の会話が描かれる。どうも彼の父親は前妻と離婚して彼の母親と再婚したようで、前の家庭の子どもに対する養育費の話を両親がしている。

 

その会話の吹き出しをバックとして、キッチンに置かれたローストビーフが描かれている。で、そこには「¥2,560」という値札がついている。

 

これ、直接的な説明を一切していないのに、この男性がどんな家庭で育ったのかが一発で分かる表現で、スゴいと思った。

 

池辺葵のマンガには、具体的な「値段」がよく出てくる。「どぶがわ」という作品では、あるスーパーで買い物をしている主婦らしき女性二人組の横を、主人公である老婆が通る。二人組は「奥さん見てアボガドが安いわ」「ほんとね」という会話をしている。老婆が棚をのぞきこむと、アボガドには一個あたり「¥198」という値札がついている。コマが切り替わると老婆の買い物カゴになって、「128円です」という店員の声。中に入っているのはもやし2袋と絹豆腐だ。これも、「格差」といった説明は一切無しで、マンガの舞台がどういう街なのかが分かる。

 

また、20代の居酒屋勤務の女性がひとりでマンションを購入するマンガ「プリンセスメゾン」では、値段そのものが作品の重要なテーマのひとつだ。年収270万円の主人公は貯金を貯めて、物件価格2,500万円の柴又の45㎡のマンションを頭金300万円の35年ローンで購入する。売買契約書と資金概算表が見開きページ全部を使って描かれる。

 

こういう値段のディテールを出す表現って、向田邦子とかの本でも読んだ気がして、実は日本の随筆(エッセイ、ではなく)の伝統なのかもしれない。「ブランチライン」の中で主人公のひとりが仕事についての持論を語った後に「それが私が社会で生きていくってことだと思っている」というセリフを言う。モノの値段とは社会の意思と欲望と理性と配慮の縮図だ。池辺葵のマンガは値札を使って人物と社会との関係性を表現するのがとても上手いと思う。

 

 

【最近のマンガ話#1】「チ。地球の運動について第4集」または、ルールを守らせる側になる面倒くささ

チ。―地球の運動について―(4) (ビッグコミックス)

 

最近読んだいくつかのマンガについて語りたい事が溜まってきたので、ラフに連続記事にしてみようかなと思う。

 

まずは「チ。地球の運動について」の第4集。このマンガの主題については以下の記事で以前紹介したので省略する。

 

巻を重ねても相変わらず面白いのだけど、特にこの4巻を読んで、本筋とあまり関係ないサイドストーリーの設定にものすごく感心した。

 

このマンガの「悪役」として、C教の教義に反する思想を取り締まる「異端審問官」という職が登場する。この4巻には、新人として初めて異端審問の職に就く2人の青年が登場する。

 

異端審問の仕事は、異端者に拷問を行うダーティーワークだ。彼らは、学生ノリが抜けない新卒社員のように、自分たちの仕事にいまいち自覚的になれないでいる。そんな彼らに、教会の有力者が演説を行なって、秩序と道徳を守る異端審問の仕事の重要性を説く。入社式でスピーチする社長のように。新人2人はその話に感銘を受け、「弱音を吐いてる場合じゃないな」「身を粉にしてこの仕事を全うしよう」と使命感を抱く。

 

ここまでの描写だけでも、ある組織が個人に対して、よく言えば教育、悪く言えば洗脳をする様子がリアルに描かれているのだけど、よりスゴいのはここからだ。新人2人組の前に、マンガ全体のメインキャラクターである異端審問官のノヴァクが教育担当として現れる。

 

そこで彼は、「この仕事 ひじょ〜〜にめんどい」とぶっちゃけて、異端審問の仕事における「出世までの効率的な働き方」を語り始める。

 

つまりノヴァクはC教の信念や教義などは本当はどうでもよくて、出世の道具として官僚的に異端審問の職をこなしているだけだと明らかにされる。新人2人組は困惑する。

 

想像してみよう。崩れかけの秩序や権威や組織を守る側に回った人間って、いったいどんなモチベーションで仕事をするのだろうか。自分の使命感や正義感を守るといった内面的な信念を根拠に働くのだろうか。それとも、ノヴァクのように完全に仕事と割り切って働くのだろうか。例えば昨今であれば、効果の挙がらないコロナ対策が批判を受けている事を知りながら、飲食店が自粛要請に従っているかどうかを監視して回る行政担当者は、どんな気分なんだろう。

 

おそらくほとんどの人間は義務と実利と惰性の間で揺れて葛藤しながら働いているのだろうけれど、不確実性が増して絶対的な権威や絶対安定な組織が揺らいでいる社会では特にそういう葛藤が強いかもしれない。

 

マンガの中では、さらにダメ押しをするように、ノヴァクに対して不平を言う役職者が登場する。「ただでさえ異端審問官の維持に金がかかるのに、新人採用なんてバカバカしい」「審問官風情は身の程をわきまえろ」と彼は言う。つまり、実は教会という組織の中でも異端審問官という役職は不人気で信用も低いポジションだと明らかになるのだ。

 

・・で、そこまで目撃してしまった上で、新人2人組は異端者を拷問する「実習」に臨まされる。何たるアイロニー展開だろう。この2人組が今後もマンガに登場するのか不明だけど、彼らの葛藤を主題にしたスピンオフとか作れそうだと思う。遠藤周作の「沈黙」の変なバリエーションみたいなものになるかも。もっとも、中世ヨーロッパでなく現代でもいくらでも舞台が作れそうだ。霞ヶ関の20代官僚の離職率は、6年で4倍超になったらしい。*1

 

 

 

「個人攻撃マシーン」化した社会を論じるキャシー・オニールの新刊はおそらく必読書

The Shame Machine: Who Profits in the New Age of Humiliation (English Edition)

 

発売予定が2022年3月なのでまだかなり先だけど、これは必読だ。AIの活用が助長する社会的な偏見や不公正を論じた「あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠」の著者であるキャシー・オニールの新刊が出る。さっそく予約購入した。

 

新刊のテーマは"Shaming"(シェイミング)だ。正式なタイトルは"The Shame Machine: Who Profits in the New Age of Humiliation"(シェイム・マシーン:誰が新しい時代の侮辱で得をしているのか)である。「シェイミング」は、「恥をかかせる、公にさらす」といった意味ではあるがしっくりくる訳語がなくて、意訳すると要するにネットを使った個人攻撃の事である。よく使われる用法としては、体型や容姿を揶揄する表現を「ボディ・シェイミング」と呼んだりする。心理学の用語では、恥の意識を持たせて相手をコントロールしようとする事(「〇〇をやるなんてお前は恥ずかしくないのか」)をもともとシェイミングと呼んでいたらしい。

 

アメリカでも日本でも、いくらでも例を挙げられるくらいネット上の「炎上」は起こっている。それに対して「Aさんは悪い」「Bさんも悪い」「Cさんは炎上はしているがそこまで悪くない」といった個別の議論も大事であるが、その背景にある社会的な力学とか構造的なメカニズムを考えたいなら、これは最適の一冊になるのではないだろうか。以下に、Amazonのページにある書籍紹介を訳してみた。

 

 

 ベストセラー"Weapons of Math Destruction"の著者による警告。ソーシャルメディアと分断された党派政治の時代における、アメリカの肥大した「個人攻撃コンビナート」(Shaming Industrial Complex)が持つ破壊的な影響を明敏に分析する一冊

 

「シェイム(恥・不名誉)」は強力で便利なツールだ。腐敗した政治家や態度の悪い有名人、略奪を行う企業を公の場にさらすとき、私たちは公平性や正義といった価値を追求している。しかし、シェイミングは危険な新段階に達している、とキャシー・オニールは本書で啓発する。シェイミングによる攻撃は日増しに「武器」と化しており、社会的な問題の責任を制度や組織から個人に転嫁するための手段となりつつある。学校でランチを買うお金が無い子どもや、仕事を見つけられない親。彼らを「恥ずかしい人間」としてさらす事は、社会として負うべき責任から私たちの目を背けさせる。やがてそれは、補助を受ける価値の無い人たちを支援するためになぜ高い税金を払わなければならないのだ、という考えに行き着く。

 

オニールはこうした「シェイム」の裏側にある構造を追及する。そして、政府や企業や健康保険制度がいかにそれらを利用しているかを明らかにする。リハビリ医療や刑務所、製薬企業や食品企業、そしてソーシャルメディアプラットフォームにおける痛切な事例を紹介し、彼らがいかに弱者を「打ちのめす」事で利益を得ているかを論じる。またオニールは、身体イメージに関する自身のストーリーを本書に織り込む。減量手術を受けて長年の「シェイム」を振り払った、自身の決断についてである。

 

明晰かつ緻密に、オニールは「シェイム」と権力との関係を分析する。このシステムは、誰に利益を与えているのか?人種差別主義者や女性差別者やワクチンへの懐疑論者を非難する事は「非生産的」なのか?もしそうだとすれば、誰かが「キャンセル」されるべきなのはどのような場合か?人の行動にインセンティブを与える仕組みが、いかにして「シェイミング」の悪循環を固定させているのか?そして、最も重要な事として、私たちはそれに抵抗できるのだろうか?

 

赤字化は私によるもの。いま(2021年8月13日時点)話題になっている以下の件で話されている内容と、振る舞い方が、そのまま当てはまると思って強調した。

 

上の例でメンタリストDaiGoがやっている事は、要するに、差別を「武器」として使って、それで商売をするという事だと思う。

 

未読だけどオニールの本がおそらく重要なのは、サブタイトルが「誰が新しい時代の侮辱で得をしているのか」となっていて、こうした炎上を「誰がそれによって利益を得ているのか」という視点で分析しようとしているであろう点だ。例えば差別的な発言があった時に、アテンション(アクセス数)を稼ぐ当事者はそれで得をしているかもしれない。これはいわゆる「炎上商法」として容易に想像がつく。でもさらに言うと、当事者とは別に、それを放置する事で利益を得ている誰かがいないだろうか?それはソーシャルメディアなどのプラットフォーム提供者かもしれないし、テレビ番組であれば、誰かを個人攻撃するコメンテーターを意図的に起用して放置している制作者かもしれない。差別は当然非難されるべきなのに、差別が「商売」として成立してしまうのはなぜだろうか。そういった社会的な力学や構造を分析しないと、ネット上で個人攻撃を「武器」として使う(weaponizeする)人が出てくる状況は変わらないのではないか。オニールはそんな主張を展開するのかもしれない。発売前なので勝手な想像ではあるが。

 

*参考:オニールの前著を紹介した過去記事

 

*参考:新潮社「フォーサイト(Foresight)」で始めた連載でもオニールの前著に言及しています。こちらも是非。