未翻訳ブックレビュー

世界の本への窓 by 植田かもめ

50歳手前の鷗外は、人生に首を振り、海を眺めていた

※noteの個人アカウントに書いているfreestyle読書日記から転載

 

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森鷗外の「妄想」という短い作品がとてもよかったので紹介したい。

 

老境に差し掛かった人間が海を見ながら人生を振り返るという、映画によくあるワンシーンみたいな体裁の小説になっている。ただし、実質は森鷗外自身の生涯を語らせているエッセイだ。明治44年、鷗外が49歳のとき、亡くなるだいたい10年前に発表された作品である。

 

鷗外は典型的などエリートとしてドイツにも留学して医師のキャリアを積みながら作家活動を続けていた。実学である医学をやりながら感じていた「心の飢え」を「役者が舞台へ出てある役を勤めている」ように感じると語る。

"その勤めている役の背後に、別に何者かが存在していなくてはならないように感ぜられる。ムチうたれ駆られてばかりいる為に、その何者かが醒覚する暇がないように感じられる。"
"赤く黒く塗られている顔をいつか洗って、一寸舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何者かの面目を覗いてみたいと思い思いしながら、舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている。"

 

今でこそ大作家とされている鷗外が、人生の不本意さと中途半端さの飢えにあえいでいる。「夜寝られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終わるのかと思うことがある」と告白しながら、鷗外と同一視される主人公は、「こういう夜」に思い立って哲学の本を読んでみた、と語る。

 

ハルトマン、ショーペンハウアー、ニーチェ。鷗外はドイツ哲学をたどる。「幸福を人生の目的だとすることの不可能」「幸福は永遠に得られない」というハルトマンの「錯迷の三期」や、「現象世界は有るよりは無い方がよい」とするショーペンハウアーを参照しつつ、ドイツ留学から帰ったときの自分も振り返る。

"自分は失望を以て故郷の人に迎えられた。それは無理もない。自分のような洋行帰りはこれまで例の無い事であったからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになっていた。自分は丁度その反対の事をしたのである。"

 

さて、厭世哲学にひかれる鷗外であるが、かといって完全な絶望にも至らない。これがこの作品の面白さで、どの人生哲学に対しても、首を振る。無数の本を読んで「多くの師」には出会ったけれど、自分を救済してくれる「主」には出会わなかった、と語る。

"辻に立つ人は多くの師に逢って、一人の主にも逢わなかった。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の抒情詩に等しいものだということを知った。"
(ニーチェの超人哲学について)"しかしこれも自分を養ってくれる食餌ではなくて、自分を酔わせる酒であった。"

 

ここには穏やかな諦観がある。人生で何らかの大事を達成することはなかった。もう年齢は老境に差しかかる。かといって「死を怖れる」ことも「死にあこがれる」こともない。

"人の生涯はもう下り坂になって行くのに、追うているのはなんの影やら。"
"かくして最早いくばくもなくなっている生涯の残余を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁は送っている。"

 

・・先日、オードリーの若林が、収録のときには明るく振る舞っていたタレントがテレビ局の地下の駐車場で虚空を見つめながらワンボックスカーの後部座席にたたずんでいるのを見たときに、「じゃあ誰が楽しんでんだよ!(芸能界を、人生を)」と思った、という話をしていた。あちこちオードリーという番組での発言。

 

人間って、客観的にはどんなに成功していても、「人生とはこれだ」という結論に対しては首を振り続ける状態から脱することができないのではないか。

 

それでも、死を怖れず、死にあこがれもせず、穏やかに海を眺めるような状態になれればそれでいいのかもしれない。

 

森鷗外の「妄想」は青空文庫などでも読める。なお、この記事中の引用部では、旧かな使いの箇所を勝手に直した。

 

妄想

妄想

  • 作者:森 鴎外
  • 発売日: 2012/09/28
  • メディア: Kindle版